「全く、てこずらせてくれたね」
少女は疲れきった表情をして刃を地面につけた。
「こんな所まで逃げるなんて。また犠牲者が増えるところだったじゃない」
マントを振りまくように舞わせて、鎌を引きずりながら少女は錬の下に歩み寄り、そして止
まった。
そこで改めて少女の姿を見る。
一見すると錬より小柄で、せいぜい160センチほどの身長だった。歳16、7ほどか。自
分と同じようで、それより下かに思える。
顔はあどけなさが残っていて、やはりここにいるべき存在には到底思えない。
けれど、さっきはその華奢な体で鎌を振り回していた。
彼女の動作は錬でも手馴れたものだと分かった。あれは幾度もやっていないと成せない。
「大丈夫?」
少女が首を横に傾け、手を差し伸ばす。
そんな事をしなくても、と自力で立とうとした錬は腰が抜けていた。立ち上がれそうな気配
がないので仕方なく手を借りる。
引かれて立ち上がり、彼女の純粋な黒の瞳と目が合う。
「……」
その時、錬は何かを感じた。
遠い記憶が呼び起こされた気がした。
「……」
気づくと、少女の顔も止まっていた。
まるで信じられないものを見たかのような。
そのうちに、いつまでも彼女の手を握っている事に気づく。
「あっ、ごめん……」
手を放し、錬はあさってを向く。顔が急に熱くなってきた。
「こっちこそ……」
少女は顔を下げた。
照れのような気もするが、何か違う。気になって、錬は視線を逸らしながら声をかける。
「どうした?」
「……、なんでもないの」
少女はぼそぼそと呟く。
目を向けるにも恥ずかしいので、錬は星を見ながらさっきの異形を思い出していた。
錬は未だ恐怖の味が残っていた。
人間ではないもの。形が崩れきったあれを初めて見たあの感触。心の中に溜まるあれは耐え
られるものじゃない。
それは彼の顔色にまで表れているという事を、錬は自覚していない。
少女は顔を上げ、世間話でもするかのように話し出す。
「けれど、あんなものが見えるなんて」
「あんなもの?」
「さっきの、腕が刃物になっていたもの」
全身を黒に纏い、腕に刃物がつき、所々にあの死体の返り血を浴びたおぞましいもの。
顔色を悪くしながら、錬は尋ねる。
「あれは何なんだ?」
「あれは〈吸魔〉と言うの。正確には欠片だけど」
錬はよく分からない単語が飛び出して眉を下げた。
「……何だそれ?」
「〈吸魔〉は人の命を弄ぶやっかいなもの。この世にはそんなものがいるの。悲しい事にね」
「いや、そんなもの耳にしないぞ」
「そうね。けれど起きている。ただ人の目には触れられないだけ」
少女は自分の(と思われる)鎌を手品師のように回しながら、
「人の理から外れた存在、それが〈吸魔〉なの。人が認識できないところに存在するの。だか
ら誰も知ることは出来ない。例外もいるけど」
錬は信じられなかった。
いきなりそんなことを言われて、信じられるはずがなかった。
「それで人に憑いて、悪さをする」
悪さ、ってなものじゃないと思うのだが。
「憑いて、って事は生き物じゃないのか?」
「そう、あれは霊よ」
………………。
「何その目は?」
「いや、神秘的な世界がこの世にもあったのだなっと」
「まじめな話なんだけど」
と言い、少女は話すのが疲れたみたいに肩を落とした。
錬は会話が途切れたために夜景を見た。
星が延々と輝いている。他の町より見やすいとの事で有名なこの樫崎市は時間だけあって静
まっている。車の音さえ届かない。
その時、その静けさを錬は不審に思った。
「そういや、なんで騒ぎが起きないんだ?」
あれだけ音を立てていたのだ。誰かが表に出てきてもおかしくはない。なのに、誰も気づい
ていないようだった。
少女が鎌を右に傾けながら、言う。
「そういうものなの。言ったでしょ? 〈吸魔〉の存在は元々人の理から外れた存在。だから、
それが起こす現象も誰にも気づかれない。まあ、霊感ある人は別だけど」
半目でこちらを見ている、どこかしらにやついていた。
「まあでも、あなたにはそれは信じれないものなのかもね」
見下された気分になった錬は怒り、大声を上げてしまう。
「当たり前だ! あんなもの……」
言うところで、またあれを思い出して口が動かなくなる。
人間になり損ねたような姿を持った、〈吸魔〉と名のつくあの異形。
「うっ……」
とうとう耐え切れず、錬は廊下で縮こまった。
少女は至って冷静に目で追っていく。
「ま、あれを見て耐えられるのは常人じゃないね」
「……お前はどうなんだよ」
けなされた気分になった錬は負け惜しみで言い返した。
私? と少女は指で自分を示す。
頷くと、急に彼女はマントを翻した。
「私は……耐えなきゃいけないから」
マントの下は黒一色だった。
けれど変わった特徴がある服というわけでもない。どうも色はマントに合わせるために黒く
したようだ。彼女が持つ印象に合わない服装だった。
マントから覗かせる、服とは正反対に白い色をしているのが彼女の腕だった。しかし、何か
がおかしい。
腕に、縦に長い切れ込みが入っている。
「その腕は?」
「さっきの傷よ」
さっき? と目を細める錬だったが、思い出した。
錬は〈吸魔〉とかいう異形に襲われそうになった時、彼女に庇われて助かっている。おそら
く、その傷だ。
途端に錬は深い負い目を感じる。
しかし、彼女の傷に対して二つ疑問がわいた。
さっき、肉が切られたような音はしていないはずだ。彼女が傷ついたなら、それぐらいする
はずなのに。
そして、
「……なんで血は出てないんだ」
そう、そこが一番おかしい。
切り裂かれた腕からは何も流れていない。それどころか、その深そうな亀裂から見えるのは
肉ではなく、漆黒だった。
何の不純もない、完全な黒。
「これが私」
そう呟いて、少女はきめ細かい腕に自分の指を這わせる。
切れ込みをゆっくりとなぞり、目を閉じて呪文のような言葉をぼそぼそともらして、
なぞり終えるとその切れ込みが跡形もなく消え去っていた。
「なっ……」
錬は唖然とした。
少女が自分の指を離すと、彼女の白い肌にはもう傷が残っていなかった。
「これが〈死神〉という、自分」
少女は鎌を半回転させ、柄の端を廊下につける。
「〈死神〉も世の理から外れた存在。本来ならこの世にはいてはならないもの」
「死神って……?」
「そう。驚いた?」
少女はどこか小ばかにしたように笑みを作る。
錬のイメージとしては、黒の長いマントを身につけて、そこから覗かせる姿は骸骨で残忍残
虐なものだ。
目の前にいる、花びらのような心奪われる可憐さを持っている少女がその類に入るとは思え
なかった。
いや、ある意味彼女が身につけているものは合っている。特に鎌が。それだとやっぱり、彼
女は〈死神〉と言えるのだろうか。
……いや、待て待て。
「そんなものいるわけないだろ!」
「まだ信じようとしないんだね。この石頭」
口を尖らせて少女は言う。
錬はその言い方が妙にいらついたため、(こんなものに意地張ってもしょうもないと思いつ
つ)言い返す。
「石頭もくそもないだろ! 何でそんなのがいるんだよ!」
「さっき言ったし。教える必要もないし」
「なっ、てめ……」
「第一、さっき見たでしょ?」
もう一度、少女はマントを広げて自分の腕を差し出す。
さっきあの異形につけられた傷は、もうそこには残っていない。
それは、さっき彼女が指をなぞらせたという、簡単すぎる行動で消していた。
なぞるだけで傷が治るなど、確かに人間にはありえないことだ。
「くっ……」
証拠を突きつけられ、錬は押し黙る。
この少女はどこまで真実を言っているのか分からない。
けれど、どれだけ言葉を並べようとこの現象は覆らないのだ。
「分かった?」
まるで認めようとしない子供に優しく教えようとする声。
「まあ、ここでの〈死神〉は伝えられているものとはちょっと違うけどね」
へへ、と少女は小さく笑った。
錬はその笑みは楽しそうな子供がするような笑みに見えて、やはり馬鹿にされているのでは
と疑いたくなった。
ふう、と少女は息を吐く。
「ま、このくらいかな。もうあなたとは会えなさそうだし」
彼女は手すりの向こう側にある景色を見ながら、少し悲しむように、
「というよりは、会わないほうが無難かも」
「なぜだ?」
「あなたが危険になるから」
少女は錬に人差し指を向けた。
「私は人を不幸にするから。そういうものだから」
指を下げ、少女はかつてあの異形がいた突き当りまで歩いていく。
「……そうなのか」
確かに、あれとずっと渡り合っていくのだから危険に違いない。
何か特別な彼女とは違い、錬は生身の人間なのだから。
「けれど、よかった。被害者が誰もいなくて」
「いや、いる」
錬が彼女の言葉を遮る。
さっき、初めて異形に会った時に内臓をぶちまけていた人間がいた。
少女は振り返って錬に歩み寄る。
「……どこに?」
「上。小腸を引きずり出されていた」
と言うと、少女はばつが悪そうに顔をしかめた。
守れなかった罪悪感。と言うべきか。
「……仕方ないね。案内して」
「あまりする必要もないと思うけど」
錬は階段に足をかけた。
「気になったんだけどさ。あれって逃げてきたのか?」
「そうだね。遠くで仕留めようとしたら逃げられちゃって」
「ふ〜ん」
との短い会話の間に、最上階にたどり着いた。
角を曲がると、さっきの残酷な光景が浮かび上がる。
「これはひどいね……」
「……」
顔が青ざめてきた。
さっきはあの異形の印象が強かったために分からなかったが、よく見るとぶちまけられた内
臓は小腸だけじゃなかった。胃、肝臓、すい臓、大腸、果ては心臓。切り裂かれた部分から見
える内臓が全て外に出されていた。血の量も、それに値するものだった。
それは、まさしく地獄絵のようで。
この世のものとは、断じて思えない光景だった。
「知り合い?」
「……いや、知らない」
最近引っ越してきた住人だろうか。それだったら気の毒としか言えない。
「さて、変えますか」
「何を?」
「この光景をなかったことにする」
と言うと、少女はその惨殺死体に近づく。
ピシャ、ピシャ。
少女が血の池を踏み、赤黒い血が彼女の足を中心に跳ねる。
「どうするつもりだ?」
「ばれたらまずいから、この死体の存在を消すの」
「そんなのが出来るのか」
「まあね」
少女は鎌を持ち上げる。その鎌は天井に届き、上の部分が天井に隠れる。さっきも見た不自
然さに錬は目を見開いた。
少女は振りかざした鎌を死体の脇に振り落とす。鎌の先端が心臓に当たり、グチャ、と熟し
すぎた果物を握り潰したような音が鳴る。それに少女は顔をしかめるが、構わず作業を続ける。
すると、鎌の先端を中心に輪が広がった。
黒い線で繋ぎとめられ、中心には五芒星が描かれた。その縁を囲む二重の円の間にはギリシャ
文字に似た、崩れた文字が書き込まれる。
少女は鎌を振り上げて、もう一度振り落とした。
その途端、魔方陣のような輪が黒の光を放ち、死体と共に陣の中を黒い光で埋め尽くした。
そしてもごもごとそれは動き、最後にはそれは小さく爆発し、辺りに分散した。
跡には、もうあの死体が残っていなかった。散乱していた内臓も、廊下一体を埋め尽くして
いた血も全て吸い上げられている。
一連の目を疑うものに、錬は言葉が出なくなる。
錬は、思った。
もう自分の信じていた世界はない。
帰ってくる事も、おそらくない。
「終わりっと」
少女が横に鎌を払い、戻ってくる。
少女が寄ってきて、錬に対して笑みを出した。
「これで大丈夫。あの人には悪いけどこれで事件が明らかにはならない」
「本当に、これは夢じゃないのか……?」
「悪いけど、夢じゃないよ」
あまりの衝撃に、錬は何をすればいいのか分からなくなる。
少女は鎌を一回転させ、持ち直した。
「夢だったら、どんなにいいのかもね」
それは、錬だけでなく自分にも言い聞かせているようだった。
「もう行かないと」
少女は突き当たりの壁に進んで、手すりに手ををつける。
「急いでいるのか?」
「ううん。けど、ね」
その直後、錬は思わぬ光景を見た。
少女は手すりから飛び降りようとしていた。ここは十一階だ。飛び降りるというのは自殺行
為に等しい。
それを慌てて止めようとした錬は、さっき彼女が痛みを感じていなかったことを思い出して立
ち止まる。
どこか、本当に会えなくなる気がする。
錬はなぜか彼女に対する不安が生まれた。
別に出会わなくてもいいのに。というよりも、出会わないほうが危険な目にあわなくていい
はずなのに。
「待ってくれ」
錬は心に反して彼女を引き止めた。
少女は飛び降りる寸前で体を止め、どうしたの、と顔で言っていた。
「お前の名前、なんて言うんだ」
その錬の声は、どこか叫ぶような声だった。
少女の目がやや驚きに染まり、そしておだやかな笑みを浮かべた。
闇に浮かぶには不釣合いな、陽だまりのような笑みを。
「私の名前は未来」
「俺は錬。稲枷錬だ」
少女は束の間、体を硬直させていた。
何か、と気にかける前に少女の硬直は溶け、下を見ながら、
「さよなら。霊能者さん」
少女は飛び降りた。
錬は手すりから下を覗く。夜だからか、光がないので彼女がどうなったかは分からなかった。
ただ、大丈夫のなのは確かだろう。
事が過ぎ去った後の、安息の静けさ。
「……、はぁ〜」
錬はそこで、緊張が解けたように息を吐いて壁にもたれかかった。
「あれは、なんなんだよ……」
世の理から外れた〈吸魔〉という存在。
あれに襲われた瞬間を思い出し、背筋を冷えたものが駆け下る。
「それに……」
あの少女。
名を未来と言った、160センチの小柄で黒マントを羽織った少女。
あの容姿、あの目。どう見ても……、
似すぎている。