あせりでてこずった鍵を開けて、錬は強引に扉を開く。玄関を錬は土足で上がった。
 そのまま短い距離にも関わらずもどかしい廊下を進みきると、そこには突然の登場に目を丸
くした未来がいた。
「ど、どうしたの? 学校はまだ始まったばかりだよ?」
「そんな悠長な事言ってられない!」
 錬の怒鳴り声に、未来がわずかにひるむ。
「……何かあったの?」
「〈吸魔〉の所在が分かった。早くしないと大変なんだよ!」
 未来の目の色が変わる。
 すくっと軍人のように立ち上がった。先ほどまでとは違い、心は真摯な態度の下に固められ
ていた。
「どこ? 案内してもらうよ」
「分かった。すぐ来い」
 錬は体の向きを変えて走り出す。
 玄関を飛び出し、最上階からなる無数の階段を下り始める。8階まで降り立ったところで、
錬は自分の足音しかしていない事に気づいた。
「あいつなにやってんだ? あっちも急がないといけないはずなのに」
 錬はもう一度戻るか考えて、先に下に降りる事にした。自分だけでも急がないと間に合わな
いかもしれないからだ。
 何も知らない人間が急な出来事に対処出来る可能性は少ない。錬は何とか逃げ惑う事が出来
たが、それも偶然にすぎない。もし学校で〈吸魔〉の欠片が発生したら……その被害は尋常じゃないだろう。
 錬は1階の廊下を踏んだ。ここまで駆け下ったのに息が上がっていないのを再度不思議に思
いながら、門を潜り抜ける。
 すると。
「遅いよ」
 未来が腕を組んでいた。
 煌きのある黒髪を日光に照らしている未来はその可愛らしい顔に不機嫌さを上乗せさせてい
る。早くとせかしてきそうだった。
 何でここに……と言おうとした錬は気づいて脱力する。どうせ12階から飛び降りてきたの
だろう。痛みを感じないのはなんとも羨ましい。
「お前さぁ……」
「ショートカットは大事だよ。とりあえず急がないと」
「おっと。そうだった」
 錬は止めていた足を動かし始めた。未来もその横をついてくる。足が速いと自慢出来る錬は
それに驚いたが、聞くのが野暮に思えた。
「で、誰なの本体って」
「月下和真。俺の親友だよ」
 未来は同情するように顔をしかめる。
 それが先が分かっているようで、錬は嫌な気分になった。
「……今からその人を殺してしまうかもしれない。覚悟は出来て――」
「させない」
 錬は未来の言葉に割り込む。
「させるかよ……もう目の前で大切な奴を殺したくないんだ」
 錬は溜まった気持ちを押し出すように、言った。
 未来はひとしきり黙って、悩むように口を開いた。
「君って誰かを守るとかっていう執着が人一倍だよね。何でなのかな? 聞いちゃいけない事
なら聞かないけれど」
 未来は濁りのない瞳を向けてくる。
 そんな目をされると錬は言わなくてはならない気がしてきた。本当に彼女は似ている。どこ
までも……。
「いいぜ。しまっておくものでもないからな」
 錬はもう一度空けた。
 蓋を閉じて、もう2度と開けないと誓ったはずのその記憶を。
「俺さ、昔はここじゃない場所に住んでいたんだ」
 そこでの錬は、今とはちょっと違っていた。もう少し大人しくて、何事にもまじめに取り組
むような少年だった。
 そこでの生活は今と大層変わらないものだったが、その時の錬には幼馴染がいた。女の子で、
ちょうど未来と同じ黒髪を持っていた。
 時間がある時はいつもその幼馴染と行動をしていた。その少女といればどんな時でも楽しい
と感じて、いつも一緒にいたいと思っていた。それを今思い返したら『好き』という感情だっ
たかもしれない。
 しかし、そんな時は突然と壊れた。
 それは4年前の話。父親の転勤で今住む町に引っ越す事になった。否応なしに決まった錬は、
その現実をありのままに受け止めた。そして引っ越し先の家を見に行く日に、未来が呼吸を
乱して現れたのだ。
「びっくりしたよ。何も言ってないのに知ってるんだもんな。あの時のあいつの目に溜まった
涙は今でも忘れないよ」
 未来は錬の過去を、走りながら無言で聞いている。
 結局、自分の思いは言えなかった。どうせ答えが決まっていたし、5日間過ぎればまた会え
る。そう思っていた。――それが最後の別れとは知らずに。
 家の視察に来てから3日目……。錬の下に訃報が届いた。その幼馴染が命を落としてしまっ
たのだ。
 すぐにでも帰って彼女の顔が見たかった錬だが、親はそれを許してくれなかった。結局町に
戻れたのは、予定通り町を出てから5日後だった。
 その時にはすでに幼馴染は墓の下で眠っていた。錬は彼女の墓に花を挿しながら、嘆いた。
なぜこうなってしまったのか。なぜ彼女を守れなかったのか。こうなるなら告白してれば、と
何度も何度も嘆き続けた。
 立ち去る前に、錬は彼女の墓で誓った。もう2度と、自分の大切な人間を失わないようにす
る事を。
 それには自分を偽る必要があると、錬はわざと不真面目な態度をとるようになった。そんな
日々を過ごしながら、今に至る。
「……まあ、こんなとこだ。俺がその誓いを守りたいからなんだよ。もちろん、和真も守りたいからな」 
 長い話を、錬は締めくくった。
 未来は顔を下に向け、言葉も出せずにいた。その様子に、錬は表面だけの笑みを向ける。い
つの間にか2人の足は地面に張り付いていた。
「どう? 俺の過去ってまるで物語みたいで面白いだろ? 俺はその物語の主人公をずっと演
じているんだよ。滑稽で、哀れにな」
 錬はわざと声の高さを上げる。
 それは単なる自嘲だった。錬は自分で自分を貶めていた。
「……なぜそう言うの?」
 未来は前髪を垂らしたまま、怒りに満ちた声で、言った。
「何で自分をけなすような言い方をするの?」  そこにわずかな畏怖を感じたが、錬は表情を一切変えない。
「そうやって自分を見下さないと、稲枷錬が成り立たなかったから」
 ここにいる錬は、錬であって錬ではない。
 今の自分を作るためには過去の自分をけなさなくてはならない。けなして、過去の自分を否
定しなくてはならないから。
「それさ、ただ……認めてないんだよね」
 しかし、未来の一言で、その理由の糸がほつれ始める。
「幼馴染が死んだって事を理解したくないんだよね。だからその子と共にいた自分を無きもの
にしようとしている。違う?」
「お、俺は……」
「ひっきりになしに反論する前に、まず自分に問うてみてよ」
 錬はこうべを垂れる。
 思えば、そんな気もする。
 否定し続けていたのは過去の自分ではなく、幼馴染だった。幼馴染と過ごした時間を過去の
自分を消す事で同じにし、それで幼馴染を失った悲しみを和らげようとしていた。
 それは……彼女に対しての侮辱だ。
 死んだ彼女を認めない。それはその時まで生きていた彼女を認めてないのと同じ。幼馴染は
の一生を認めていないのと同じなのだ。
「失われた命は戻らない。それがこの世の理だから。けれどね」
 未来が顔を上げる。その目には失望が溜まっていた。
「だからってそういう気持ちを作ってはいけない。今の君を見たら、死んだその子もきっと悲
しむよ。自分のために彼を殺してしまった、てね」
 その揶揄がよく分からなかった錬は訝しむように目を細める。
「分からない? 今の君は死んでいるの」
「何がだよ。俺は今こうして……」
「心」
 無感情の声で未来は言った。
 錬はなぜか、その言葉が自分の奥深くにあるものを突き刺した気がした。
「偽りの感情は偽りの心。その偽りが昔あった君の心を覆い隠している。もちろん偽りの心は
死んだ心であり、その殻で光を失われた心は花のようにしおれ、枯れて、散った。私なら断言
出来るよ。どちらの心も死んでいる」
「違っ……」
 錬は否定しようとして、見つからなかった。
 今の未来に言い返せるような言葉も、それを言う資格がある心も、もうどこを探しても見つ
からなかった。
 それは確かな真実だった。
 今ここにいる錬は過去を消し去ろうと誓った自分。その時から過去の自分は死んだ。否、自
分で殺した。
 そして結局、その心は嘘の感情で彩られていた。自分でも、それは自分じゃないと分かっていた。認めなかったのだ。
 つまり、この錬は稲枷錬ではない。
 
 何者でもない、空ろな存在。

「……まだ君にあのころの心があるのなら」
 未来はゆったりと響く声を、錬のしまわれた心に届けるように。
「出して。もう偽る必要はないから」
 それは未来と出会い、〈吸魔〉に庇われた時の声に似ていた。
 屋上で、自分を守ってくれると言った時の声に似ていた。
 その声はいつも安心させ、信頼させてくれる。
 錬はその時やった行動に合わせるように、彼女の顔を直視する。
 やはり、彼女は笑っていた。その笑みが天に輝く太陽と同等だった。
(似ているんだな……どこまでも)
 どっちか分からない心で、錬はその中に呟く。
 未来と幼馴染の少女はとても似ている。体格、髪、顔、声、性格。一目みたら彼女みたいじゃ
ないかと疑ってしまう。錬が彼女を頼りにする事が出来たのは、未来と幼馴染の少女を合わせていたからだ。
 しかし、違う。それに彼女は4年前に死んだのだ。いい加減認めてやったっていいだろう。
「俺って馬鹿だな。そんなのも分からなかったなんてさ……」
 すっかり落ち込んだ声で錬は呟いた。
「……そこまでその少女が好きだったんだよね。死んだっていう現実にそっぽ向けるぐらいだ
もん」
 錬は数秒間を作って、ああ、と頷いた。
「……そうなんだね」
 その時、未来がかすかに喜びの笑顔になっていた。
 錬は今まで偽っていた心に目を向け、今すべき事を確かめる。
「だけどな……心がどうだろうと誰かを守る事には関係ない」
 人を大事に思い、守る。その意志は決して形を崩さない。
 うん、と未来は大きく頷く。
「和真君、だね。行こう。随分と長く話しすぎたね」
 直後、未来がダッシュした。その速度はすさまじく、自転車でさえ追い抜かれそうだ。
 虚を突かれた錬は慌てて追いかける。
「ちょっと待てよ! 〈死神〉ってのはこんなんのもありなのかよ!?」
「さっさと行かないと間に合わないも〜ん」
 気楽な未来に錬はこめかみを引きつらせ、全速力を開始した。
 足取りは足枷が外れたように、軽かった。





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