未来はマグカップを2つ手に取り――いつ場所を知ったのか――コーヒーを注いで錬の手前
に差し出した。錬は両手で包み、コーヒーの温かさを感じた。
「さて、何があったのか説明して欲しいんだけど」
 錬と未来はテーブルを挟んで相対する位置に座っている。屋内で話すのは寒いと考えて、
あそこからさっさと帰ってきたのである。
 マグカップを片手に持って、未来は先ほどの件を突き止めようとしてきた。
 錬は頭が混乱していて答えられない状態だった。
 慣れない逃亡をした錬は頭を整理するのにかなり時間が必要で、錬がやっとの思いで口を
開いたのは10分後だった。
「唄奈……同じ部活の子に連れて行かれて、話して気づいた時には6時ちょいだった。1人
になった直後に襲われて……あそこまで逃げたんだよ」
「断れなかったの?」
「……お前から聞いてた事をすっかり忘れていた」
 未来は錬を呆れたように一瞥した。
「自分の命をぞんざいに扱えるなんて。もし私が来なかったら確実に八つ裂きだよ。それど
ころか肉片にされてたかもね」
「……」
 返す言葉がなかった。
 錬が俯いた状態でずっといるのに見かねたか、コーヒーを啜った未来が大げさに声を張り
上げる。
「まぁ助かったんだからいいでしょ! 暗い雰囲気になったらこっちが困るし!」
「……また助けられたな」
 未来は一拍置いて、素っ頓狂な声を出した。
 錬の中を渦巻いているのはその悔しさだった。何も出来ず、ただ見ている事しか出来ない
自分に腹を立てていた。
「1回目も2回目も。3回目は気づいていたのに何もしなかった。こういつも助けられてば
かりで……何も返せない自分が悔しい」
 迷惑しかかけていない、それが杭のように錬の心を深くえぐっていた。
「……」
 未来は錬を凝視していたが、顔の力を抜いて微笑んだ。
「その気持ちがあれば十分だよ。それは私に感謝してるって事でしょ? なら私はそれを受
け取れてとても嬉しい」
 彼女の笑みは、本当に日の光のような暖かさがある。
 錬はしばし未来を見つめ、同じように微笑を返し、改めて礼を口にした。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 錬は未来から渡されたコーヒーを口元に運ぶ。ブラックのそのままの苦さと熱さが広がっ
て、少し顔をしかめる。彼女も同じものを飲んでいるのだろうか。
 未来は熱いはずの、まだ半分もあるコーヒーを一気に飲み干して空にした後、顔を寄せて
尋ねてきた。
「それにしても、君どれだけの時間逃げ続けてきたの?」
「……20分くらい」
「思うんだけど、それもう人じゃあ考えられない持久力だよ?」
「何でさ」
「〈吸魔〉の速さって自転車並みだよ? 人間がどれだけ速く走れようと絶対追いつかれる。
だから出会ったらすぐ八つ裂きって言ったのに」
 ん? と錬は疑問を持つ。
 錬の感覚としてはそんなに速くなかったような気がしたのだ。あってもせいぜいマラソン
選手と同じくらいかと、そんなものでしかなかった。
 もし未来の言うとおりなら、おかしいのは〈吸魔〉ではない。
 
 自転車並みの速さから20分間も逃げ切った、錬の方だ。
 
 そんな速度で20分走って、人間の体力がもつはずがない。しかも途中は全力疾走だった。
でも、疲労で倒れこまないで錬はその場に立っていた。
「……俺はおかしいのか?」
「人間として見たら、限りなくおかしい」
 肯定の頷きを見せて、未来が言う。
「今も疲れきった様子を全く見せないし……。君は一体何者?」
「俺は俺だ。他の何者でもない」
 錬はしっかりと言い切る。
 錬は錬であって、ただの人間である。特別な力でもあるわけでもないし、まさか
誰かに操られているわけもない。
 疑いの眼差しを向けていた未来はゆっくりと姿勢を戻し、椅子に深くもたれた。
「なぜだか狙われているという点もあるし。何かあるんじゃないのかなぁ、と思ったんだけ
ど何もないんだね。……楽しくない」
「楽しくない言うな」
 何を求めるか分からない未来に錬はくたびれたような息を吐いた。
「そういえば、お前って何か調べに行ったんじゃなかったか?」
「う〜ん。そうだね〜」
 含み笑いを浮かべた錬はちょいと残念そうに言う。
「……何も分からないや」
「……はい!?」
 な、何をやってたんだお前!?
 と言葉が出掛かって、慌ててのどの奥に詰め込む。
「一応調べたんだけどねぇ、な〜んか掴めないの」
「……何も?」
「何も」
「それにしては妙に楽しそうだな、お前」
「む〜、そうでもないんだよ?」
 とは言うが、表情はニコニコしていて全く変わっていない。
「〈吸魔〉を速く止めないと被る人々が増えちゃうし。まだ被害者は2人しかいないけど、
あれは確実に凶暴なんだから」
「2人?」
 1人は錬が最初に見た人間だろう。だとするともう1人が誰だか気になる。
 未来の表情に苦味が加わった。
「男性だよ。ちょっといかつい顔をした人で、殺されたのは一昨日の6時頃だね。殺され方
は指1本までばらばらにされていた」
「一昨日って……俺が〈吸魔〉を初めて見た日か?」
 未来は小さく頷いた。
「それは倒せたんだけどね……油断したよ。まさか同じ日に現れるなんてね」
「2人、か。結構大きいのか?」
 今度は首を振って否定する。
「ましな方、かな。多い時には50人ぐらい惨殺されたものを見た事がある」
 錬は鳥肌が立った。
 それと比べれば確かにましだろう。けれど、結局は死人が出ているため、全然大丈夫とは
いえない。
 と、錬はふとある事を思った。
「お前はよくそういうのに耐えられるな」
「何が?」
「その……惨殺された死体」
〈吸魔〉を狩る立場ならそういうのも必ず目にするだろう。昨日のような内臓が撒かれた死
体と向き合うのは過酷だろう。錬はそこは彼女に感心した。
 未来は目をつぶり、微笑む。けれど声は少し悲しんでいた。
「最初は私も駄目だった……。初めて見た時は胃の中を全部だしちゃったくらいにね。でも
……もう4年だから」
「? 生まれた時からじゃないのか?」
「あ〜そっか。言ってなかったね」
 空気を一転させ、未来はとっても陽気に語る。

「〈死神〉ってね、元は死んだ人間なんだよ?」

 その事実はあまりにもヘビーだった。





前へ 一覧へ 次へ