朝の陽光が、カーテン越しに差し込んでくる。
「ん……」
 布団の中の錬はぴくりと動き、重たいまぶたを持ち上げた。
 体をゆっくりと起こし、ぼさぼさの髪を掻き揚げる。
 その先に映るは、自分の部屋。
「普通、だな……」
 ぼそりと呟く。
 11月とは思えない冷気に包まれた自室は実に普通だ。特に変わったものはない。必要最低
限の物だけを置いた、殺風景な部屋。
 錬にとって、それが普通。
 それを確認しないと錬は変になってしまいそうだった。
 すべては、あれから。
(眠い……)
 錬は目を瞬かせる。一向に眠気が取れる気配がない。
 錬は昨晩、寝つきが悪かった。
 まぶたを閉じると、あの歪な人形が映るのだ。
 閉じては開き、閉じては開き。それの繰り返しを何十回も行って、4時ごろにようやく夢に
落ちることができた。
 しかし、その夢もあの化け物と似たようなものに殺されるという、悪夢。
 錬は眠たいという意志が強かったが、まぶたを閉じるとあれが記憶の奥底から甦ってくる気
がして出来なかった。
 結果。錬は今睡魔と闘っていた。
「……」
 ふざけんな、と言いたい。
 これを夢だと錬は切り捨てたい。
 それぐらいに昨日の光景は、錬の見てきたものを呆気なくぶち壊した。
 けれど。
(夢、とはいかないんだよな……)
 錬は力なく頭を掻いた手をだらんと落とした。
 昨日の〈吸魔〉という異形に襲われた。あの姿を例えるならば、作る途中で放棄した人間の
ようなものだ。
 そんなものが人間をまるで解剖でもするかのように内臓を露にして殺された。
 そんな現実があっていいわけがない。
 しかし、錬はそれを夢だと決めて振り切れない。
 それは自身の手が覚えているからだ。
〈吸魔〉に刃物となった腕で串刺しにされそうになった時、錬はほぼ反射的にに〈吸魔〉の腕
を掴んだ(今思えば刃を掴んでいたかもしれない)。
 あの感触は錬の手にまだ残っている。
 血でぬめりとした、粗い岩肌に触るような感触。
 あれが現実だとは、もう身にしみるほど分からされた。
(夢だったら、あそこまでリアルにならないし)
 そう言って錬は笑ったつもりだった。笑えば気持ちが晴れると思った。
 しかし、頬の筋肉は全く動いていなかった。
『夢じゃないよ』
 鮮明に浮かぶ、少女の声。
 打ち砕かれた、現実。
 理から外れたものがいるという、真実。
 今までの日常はかりそめだったという、真相。
 錬はうなだれ、溜息をついた。
(ここまでひっくり返るとなぁ……)
 こうなると、溜息しか出てこない。
 喪失感とはまさにこの事を言うのだろう。錬は何も考えられなくなった。
 全ての音が遠ざかっていく感覚さえしてくる。
 錬はそのまま、時間が経っていくのを感じていた。
(どうすればいい)
 幾時が経って、錬は顔を上げた。
 元の日常を手に入れるには、どうしたらいいか。
 錬は遠くを見つめて、ふと考えた。
(忘れればいいんだな)
 答えは単純だ。  錬は自分が特別な存在だと言われたわけじゃない。ただ単に、この世界に渦巻くものを教え
てもらっただけだ。
 ならば、それを2度と思い出さないようにする。時を経てば、どんなに嫌な記憶でも必ず忘
れているだろうから。
 錬は自分から関わろうなんて思わない。
(俺は踏み込みたくはない)
 むしろ嫌だった。
 あれと関われば自分がどんだけ危険にさらされるか分かっている。誰でも何にもなしに死に
にいくなんて馬鹿な話はしない。
 それに、ようやく取り戻せたこの日常を壊されたくはなかった。
(あの時の俺は、もういないんだから)
 錬は感情の乏しい表情で横を向く。
 何も変わらない、それが日常。錬はそれを壊すような真似はしたくない。あの異形の事など
さっぱり忘れて、今まで通り同じ生活をしていけばいい。
 非日常など、まっぴらごめんだ。
 そんな風に思った矢先、時計が視界に入る。
「あれ……?」  そこで錬の思考が細切れになっていった。
 錬が見ているのは電波時計。誤差はほとんど生まれない時計だ。だから、この時計が示す時
間は間違っていない。
 だからこそ、信じたくなかった。
 7時半。
「まずっ!?」
 考えていた事など吹き飛んで、錬は布団を跳ね飛ばした。
 そのまま錬は血相を変え、寝巻き代わりのジャージ姿で飛び出す。
 リビングに駆け込むと、冷めた料理がテーブルに並んでいた。
 そこにはすでに食事を終えた2人がいた。パンにサラダ、それとコップに注がれた牛乳が食
卓に並んでいる。時間の経過か、コップには水滴がついていた。
 錬は座り、急いでパンを口に運ぶ。
「何やっているのよ、この馬鹿」
 そんな錬に呆れているのは錬の母だった。彼女の言葉にむっときたが時間がないので無視し
て食べ続ける。
「そんな風に食べるとつまるぞ」
 新聞から顔を覗かせたのは父。彼は実にのんびりとした口調で錬に言った。そんな忠告も無
視して錬は食べ続ける。
 直後、むせた。
「ごほっ、ごほ!」
「そらみろ」
 錬は牛乳で流し込み、涙目で父を見る。
「仕方ないじゃないか! なんか時間が過ぎ去っているんだから!」
 いつもなら、錬はもっと早く起きている。
 寒さで起きれなくなる事もあるが、それでも7時には顔を出していた。それぐらいでも十分、
間に合うからである。しかし、思案していたうちにその時間を過ぎてしまった。
「俺だって悲しくなってんだから!」
「知らないわよ」
 錬の心の訴えを千佳は一蹴した。
「……は、ってか時間迫っているんだから呼べよ!」
「あんた馬鹿じゃないの? 呼んだわよ?」
 は、と錬はパンを口に詰める手が止まる。
 そこへ付け足しのように父親が口を挟んだ。
「確かに呼んでいた。6時半頃だったっけ。けれどお前がいつまで経ってもやってこないから
めんどくさくなってやめたんだよ」
「……」
 錬は記憶を振り返る。
 そういえば、何も考えられなかった時間があった気がする。その時に母の声もかすかに聞こ
えていたような気がする。何やってんだ俺〜! と叫びたくなるも消沈した。
 がっくりとうなだれている暇はない。時間が迫っているのだ。錬はパンを口に押し込み、無
理やり飲み込んだ。
 ふと、錬は自分に取り分けられたサラダを手にとって、
「……、そういえばさ」
 錬は確認する。
「昨日の夜さ、何か物音しなかった?」
 吸魔が壁に当たった時、相当な音がしたはずだ。あれぐらいなら多分家のどこにいても聞こ
えると思う。
 しかし、2人は顔を見合わせ揃って首を横に振った。
「何それ?」
「しなかったがな」
 錬は一度言葉を詰まらせ、続ける。
「けど、さ。近くで激突したような音がしてない?」
「それなら私達は起きているはずだがな」
 それはごもっともな話だ。
 それでも聞こうとすると次第に2人の眉が中心に寄ってきて、しまいには、
「夢でも見たんじゃない?」
 と母親に笑われてしまった。
 両親は何も知らない様子だった。
(知らないんだ……)
 錬は手を止める。
 あの少女の言う通りだった。
 人の理から外れているから、人には認知できない。〈吸魔〉というのは本当にその通りらし
い。錬には見えていたが。
 ともかく、あの場所で起きた事は誰も知らない。
 誰も知らない事を現実にあったなどとは表では言えないはず。そうなると錬は安心感が芽生
えてきた。
「なにしているのよ。手を動かさないとやばいんじゃない?」
「……は!?」
 母の声で我に返ると、すでに40分を回っていた。
 思いつめていた錬は一気に現実に引き戻され、錬は手に持っていたサラダを一気にかき込ん
だ。またむせそうになったが、何とか抑えた。
 自室に戻り、制服姿になって鞄をひったくる。あんな夜遅くに帰っていても用具はちゃんと
入れていた。今回ばかりは自分に感謝しないといけない。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
 それだけの会話を交わし、錬は玄関を飛び出した。
 カッターで指を切った時のような冷たさが錬の全身を包み込む。
「寒っ!?」
 錬は悲鳴を上げたが、身を震わせている余裕はない。
 錬は歯をがちがち鳴らせながら走った。
 身につけていた物を全て振り落とす勢いで、全力で。

 この時、錬はあるものを感じていた。
 母と交わした言葉。
 まるで最後の別れみたいな感覚だった。
 もう繰り返せない気がした。
 2度とそれを交わす事が出来ず、そのまま虚空へと溶けてしまう気がした。
 それを錬は心の中でありえないと打ち消した。
 今まで保てたものが、そんな簡単に崩れるはずがないのだから。





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