「ふぅ。まずは〈吸魔〉の事を知ってもらわないとね」
空を見上げるのを止め、未来は氷のように冷えたコンクリートの床に腰を下ろした。
「ほんと、俺はまだ化け物の話が信じられないんだがな」
「そこから? まず君のその考え方を取り払ってもらわないと困るんだけど。というか、君っ
て霊とか見えるんじゃないの?」
あ〜、と錬は間の抜けた声を出す。
〈吸魔〉は『人の理から外れた存在』だから人間には見えないし、それが起こす現象に気づく
事はない。その例外が、霊感がある人間だ。
だが、
「俺は霊感なんてない」
「え……?」
彼女は天地がひっくり返った時みたいに目を見開いた。まるで、それが前提条件に見ていた
かのように。
しかし、見ないものには見ないのだ。もし霊感があるのなら、(いくらあれがぐちゃぐちゃ
な異形でも)あんな風に錬は怯えないのだ。
未来は不可解そうに腕を組んで、う〜んと唸る。
「じゃあ無理ないね。私はてっきり見えているものかと。だったらあの時から霊感が目覚めた
のかな? 気の毒だね」
「いや、霊は見ていない」
と言うと、彼女はまた同じような驚き方をした。
「え、見てないの?」
「いや、それ以前に本気で霊とかいんの?」
「だ〜か〜ら〜、霊はいるの」
何度も言うように、未来は面倒なのを顔に出しながら言った。
「は? まさかいるの? 本当に?」
「あれ見た時点でそれ取って……って、お〜い。聞いてる?」
とは言われても自己概念を木っ端微塵に砕かれたくない錬は軽く天を仰いで無視した。
「……」
無視されたのが少女には少しいらっときたようだった。
「……ふざけないで」
未来の声に似たような、しかしそれにしては低すぎる声が聞こえた。
それと同時、錬の視界に何かが現れた。
薄く、少し銀色に煌くもの。それをよく見ると、
刃だった。
「はい!?」
それが鎌だった事に心底飛び上がりそうになった錬は寸でで止めた。飛び上がれば自分の顔
が刃にめり込んでしまう。
そのままぎこちなく錬は振り返る。
そこには果てしなく凶悪な笑みをした〈死神〉がいた。
「分かる気ゼロなら振り落とすよ?」
あの時はとても優しそうな笑みを出していたが、状況が変わるとここまで恐ろしいものになっ
てしまう。
錬は固まった状態ではいすいませんでしたと連呼するしかなかった。
「……まあいいや」
鎌を引き戻し、空を見つめながら語り始める。
「とりあえず、〈吸魔〉の何が知りたい?」
「自分から語り始めてそれか――、いや、なんでもないです」
未来が鎌を持ち直したため錬は敬語になった。
「そうだな……とりあえず、〈吸魔〉とは何なんだ?」
「……記憶力ゼロなのね……。簡単に言えば霊。複雑に言えば『人の理から外れた存在』。例
えばさ、悪霊って動かないものが急に動いたり、写真に変なものが写ったり、人に憑いたり。
精神的に悪さするでしょ? それと同じ。違うのは悪さの仕方が物理的なのと、ほぼ人を殺し
ているという事」
「はぁ……」
〈吸魔〉は霊と同じらしい。人間からは考え方の次元が違うとかそういうものらしいが、霊感
のある人間は見えるらしい。
ふと、錬は素朴な疑問を抱いた。
「じゃあ〈吸魔〉って霊能者でも退治出来るのか?」
「ううん。普通の霊と対処の仕方が全く違うの。霊能者って数珠や十字架とかの『道具』、梵
字や英語などの『文字』、仏教語や古代ギリシャ語とかの『言語』を使って霊を呼び寄せて除
霊とかを行うの。けど、〈吸魔〉は違う」
未来は、それは沈んだ声で。
「〈吸魔〉は霊であって霊ではない。つまり霊だけを対象とした媒体は使えない。専用のカー
ドじゃなければ使えない機械を別のカードで動かそうとするようなもの。実際に〈吸魔〉に立
ち向かって……ひどい死に方をした霊能者もいるよ」
錬はそれが嘘ではないと悟った。
体を風が吹き抜けるような、小さな空白があった。
「じゃあ……〈吸魔〉を倒せるのは〈死神〉しかいないと?」
「そう」
未来は言い切った。
その簡潔すぎた言葉に、普通の人間がどれだけ無力な存在かを裏で語っていて、錬はやるせ
ない気持ちになった。
「……そうだ。これって世界でも起きているのか?」
「違うよ。この現象はなぜか日本しか起きてない。おそらく、日本は神を敬うような生活習慣
があるからだと思う」
「敬う? 馬鹿じゃないか?」
あまりにもふざけていたため、錬は嘲笑った。
錬にとって、神とは元よりいないもの。いや、いても意味のないものだと捉えていた。何も
しないくせに上から目線の奴などうざったい限りだ。それが神を全く信じようとしない理由で
もある。
とにかく、そんな神を敬うなど(少なくとも錬は)なかった。
しかし、そんな錬の嘲笑も未来は全く動じない。
「言っておくけど。まずどこの家にも普通は神棚みたいなものがあるんじゃない? クリスマ
スだってキリストの誕生を喜ぶ日だったり、もうすぐのお正月も、あれは神を迎えるとか意味
はあったりするんだよ? 知らずのうちにも、日本の習慣には敬うようなものがあるの」
「……」
それを言うなら他の国にもあるんじゃないか、とか言いたくなる。
錬の心を読んだかのように未来は口を開いた。
「あとね、一応古事記によると――古事記って分かるよね?」
未来は確認のように尋ねてきたが、歴史とか古文とかをさっぱり寝て過ごしている錬には沸
けの分からない話だった。
「……、古事記は日本の神話をまとめた物」そんな錬を見て、呆れ顔で、「それによると、日
本は大陸を創った神とは別の神で創造されているの。つまり、日本はちょっと特別って事」
「別の神で創られたから……なんだ?」
「霊は東洋に出るものと西洋に出るものは全く違う。〈吸魔〉は東洋に出るもの。東洋と静養
の霊は相反するもので、日本は独自の神が創ったせいで島国。西洋の霊は入って来れないから
敵なしの状態なのかな」
「ふ〜ん。となると中国や朝鮮にも〈吸魔〉はいるのか。いるけれど、勝手に似たような存在
に退治されちゃうってわけか」
「うん、そう」
未来は首を動かした。艶ある黒髪が煌きを放つ。
それに錬が見とれながら、ふと思った。
「なあ、これって全国で起きている話か?」
「そりゃそうだけど」
「じゃあ、お前みたいなものが他にもいるのか?」
全国にいる〈吸魔〉を討伐するのなら、それなりに未来と同じような存在がいるはずだ。
未来は一瞬自分を汚されたような怒りを含めた表情をしたが、諦めたようにはぁ、と吐息を
漏らした。
その口から出たのは、
「そうね……、知る限り6人かな」
「な、6人!?」
錬は絶句した。
それでは数が合わない。日本全国に起きているのだとしたら、それを治めるのに廻らな
ければならないはず。一体全国を廻るの何ヶ月かかるのだろうか。
だが、未来は考えられる苦労を感じさせない笑顔をしていた。
「君の心配する事じゃないよ。そこまで〈吸魔〉は出てこないから。1ヵ月に全国で1ヵ所、
はたまた3ヶ月でも一回もでくわさないかも知れないから」
「……どこに出たのかも分かるのか?」
「ううん。〈吸魔〉がこの世に出た、って事ぐらいしか分からない。だから、君を助けられた
のは偶然なの」
偶然。
その言葉に、錬は明確な恐怖を感じた。
もし本当に運がよかったら〈吸魔〉を見る事すらなかったかも知れない。しかし逆に、偶然
に見放されていたら、
ここに、稲枷錬という存在はなかった。
「……にしてもさ」
心の中に溜まった物を押し出すように、呟く。
「それを聞くと、どうも助けられない人の方が割合高いんじゃないか?」
「……事実、そうだよ」
目の前の〈死神〉は苦い顔をしていた。
「私達は数が少ないし、その上どこに出てきたのかさえ分からない。だから、必然的にやられ
ちゃう人が多くなっていく」
今の少女の表情を、錬は昨日見ていた。
あのマンションで、1人殺されたのを彼女が知った時だった。
ここにいる〈死神〉は正義感が強いのかもしれない。守りたい、そんな精神があるから一層
罪悪感が生まれるのだろう。
そんな未来を、錬は同情した。
すんなりと彼女の気持ちに同意できた。
「後1つ。〈吸魔〉はなぜ人を殺したりするんだ?」
「……ん、それはね」
俯かせていた顔を持ち上げ、振り切るように立ち上がった。身にまとうマントが広がって、
夜の恩恵を受けたような黒髪がふわりと舞い踊る。
「私達にも分からない」
「……は?」
「実はと言うと私達は〈吸魔〉の実態を知っているだけ。〈吸魔〉がなぜ現れたのか、何の目
的があるのかが分かっていないの」
「何も?」
「うん、何も」
未来は質問されて逆に困ったようだった。
これ以上は聞けそうにない気がして、錬は口を閉じる。
代わりに空を見上げた。
夜も更けて音すら届かない空間の中で、空を彩る星々が星官を作っていた。1つ1つの星で
も、その輝きはどれも失われていない。
この空を見ていると、自分を取り巻く現実から離れられる気がしていた。
「……さて、もう行くね」
未来が埃のついたマントをパタパタとはたきながら言った。
「どこへ? ていうか拠点とかあるの?」
「いや、ないよ」
「あ、そう……っておい!」
うっかり流しそうになったが、錬は事の重大さに気づいた。
「お前どこで一夜明かすつもりだ!?」
「う〜ん、野宿?」
「えええ!? 女の子が野宿ってけっこうやばくない!?」
平気で言いのける未来に、彼女の夜が不穏な気がしてたまらない錬は叫んでいた。が、未来
はそれがうっとおしいように眉を寄せた。
「別に気にするものでもないけど……そうだ」
未来は再び強い眼差しを向ける。
「君、今後絶対に1人で行動しないで」
「なんでさ」
「言ったでしょ。君は狙われているって」
「いや、1人のほうがいいだろ」
それだと逆に1人でいたほうが誰にも被害が及ばないはず。
「違うの。〈吸魔〉は集団でいると襲わないの。だから、1人でいると殺される危険が高くな
る。あれの被害者も、1人でいた時に襲われたしね」
未来は本気の眼差しを向けていた。
錬は彼女が嘘をつく必要もないと思い、素直に頷いた。
「じゃ、またね」
言うと、未来は屋上の縁まで歩いていく。
何をする気か、と思ったらそのまま小さくジャンプして目下の漆黒へ飛び降りた。
「……、え〜」
錬は以前にも見ているが、やはり度肝を抜かれていた。
そして、飛び降りるのが趣味なのかなぁと漠然と思っていた。