身を切るぐらい寒い夜だった。
 稲枷錬は天体観測をして帰るのが遅くなってしまった。今は時刻11時。親にはすでに伝え
てはいるが、ここまで来ると叱られるかもしれない。
 そんなことを思いながら夜道を歩き、マンションにたどり着く。
 12階建ての、そこそこ高級なマンションだ。気品さを少し感じられるマンションの階段を
使って上る。錬の家は最上階にあった。それを錬はいつもめんどくさく思う。けどエレベーター
は使わない。なんとなく運動できるからだ。
 疲労度全快の状態で彼は最上階にやってくる。
 だが、途中で錬は足を止めた。
 後は廊下を歩けば家にたどり着けるのだが、それを踏み出す足がためらわれた。
 その先に何かを感じたのだ。
 目で見ていないから分からない。だが、体中を走るものが何かを伝える。
 十二月の夜風よりも冷たい悪寒。
 己の身を絞るような圧迫された空気。
 見ていないのにも拘らず、その先に進んではいけない気がした。
「……」
 しかし、ここを行かなければ家には帰れない。ここは12階だ。窓から侵入することは出来ない。
 錬が立ち止まっていると、その廊下から何か物音がしてきた。
 ザシュ、と布袋を切り裂くような音。
 それは断続的に聞こえてくる。それが何なのかは彼には分からない。分かりたくない。
 行ってはいけない。
 奥深くに眠る心理が叫ぶ。
 しかし、行かなければならない。
「……、」
 何もない。
 ただの思い過ごしだ。そんなことあるはずがない。
 錬はそれを固唾を呑むような表情をして押し殺し、そして廊下に繋がる道へと一歩踏み出し
てしまう。
 そして、見た。

 異形なものが、人間の腹を切り裂いている瞬間を。

 異形なものは一見人間のようだったが、違う。こんなのは人間と呼べるものではない。体の
色を黒に染め、その所々に血を浴びて、腕が刃物のように鋭くぎらついたものなど。
 それの次に、錬は人間と呼べたものを見た。
 今は、その人間は仰向けになって倒れていた。ただし、腹の辺りは切り裂かれ、細長い何か
が異形のもう一方の、人間と見受けできないほど歪な手が持っている。
 熱を持ったように赤い色の、その上に血の紅い色で染められた長い物体。
 それが小腸と判別するまで時間がかかった。
 ヌチャ、と異形のものが小腸を軽く握りながら、その異形は小刻みに体を震わせていた。
 まるで、獲物をしとめて歓喜に震えているように。
「ひっ……」
 錬は声が出なかった。
 あまりに日常から離れた光景。
 人間が惨殺されている。その現実を受け付けなかった。
 ギギッ、と錆びた機械がこすり合わせるような音を立て、今まで背を向けていた異形が錬の
ほうへ振り返った。
 その顔は歪みに歪んでいた。
 目は紅く、鼻も斜めについていて、口は裂け目が頬の辺りまで届いている。
 それは、人間が人間になり損ねたような。
 まさしく悪魔の姿だった。
「あ、あああああ!!」
 そこでとうとう錬は叫び、階下へ駆け込んだ。
 壮絶な足音と共に錬は駆け下る。足がもつれても、滑り落ちてもいい。とりあえず下って、
あの怪物から離れなければ。
 あれに殺される。
 それは傍にあった死体と、あの異形の顔を見た瞬間分かっていた。
 その時、階上でガン、と音がした。
 何を表すか考えられなかった錬は気にせず段を飛ばして11階に降りる。高い所から飛び降
りたからか、足首が嫌な音を立てたが気にしない。
 そこは上と違って静かだった。
 災難が通り過ぎたような、その静かな空間。
 静寂に包まれた空間に一安心して、錬は何気なく外を見る。
 月と星が瞬くその闇空。その輝きが安心させてくれる気がした。
 遮るものが来るまでは。
 さっきの音はあの異形が飛び降りる音だったのだ。闇に紛れるような黒色の異形は、手すり
を握りつぶすような勢いで掴み、軽い身のこなしで廊下に着地した。
 異形は首をごきごきと鳴らし、真っ直ぐに錬を見ている。
 その紅い目は光っていた。新たな獲物を見つけたかのように。
「ッ……!」
 錬はまた降りようと階段に駆け込もうとする。しかし遅かった。それよりも先に、異形がめ
まぐるしい速度で飛び掛り、錬を押さえつけた。
 ゴン! と廊下に錬は頭を打ち付ける。
 痛みにうめきをもらそうとして、錬は口が動かなくなった。
 異形は錬を片手で押さえつけ、もう一方の刃物のような腕を高々と上げていた。
 刺し殺すために。
 錬は振りほどこうともがく。が、片手にも関わらず強い力で押さえつけられていて、引き離
すことが出来なかった。
 錬は恐怖からか、顔を逸らせない。
 異形はいかにも楽しそうだった。口元を歪ませ、目じりは垂れている。
 終わった。
 錬は思考が全て停止して、そしてそれだけがよぎった。死にたくはないとも思うが、逃れら
れない。
 そのまま、異形はその刃物の腕を振り落とそうとして、

「そのまま動かないで!」
 
 ふと、鋭い声が聞こえた。
 それと同時、異形がものすごい勢いで真横に吹っ飛んだ。
 異形は宙を浮いて2、3回ほど回転し、20メートルはある廊下の突き当たりの手すりに激
突してようやく止まった。腕を廊下に突き刺し、立ち上がろうとする。
 自由になった体を起こし、異形を見ようとした錬はあるものを見た。
 黒いマントを羽織った、長髪の少女の姿を。
 月明かりに照らされた光沢の黒髪を腰まで伸ばしている、この殺伐とした場に不釣合いな少
女がそこにいた。
 だが、彼女の持っているものは更に不釣合いだった。
 大振りな鎌。
 マントから覗かせる可憐な指が捉えるものは、このマンションの天井をすれるかどうかのぎ
りぎりな大きさを誇る鎌だった。柄は黒と白の2色で組み合わされていて、刃の部分には崩れ
た文字が彫られている。あの少女が持つには大きすぎた。
 それは、錬の現実を壊す新たな存在。
 錬は全ての光景に対して絶句した。
「なんだよ、これ……」
 頭なんてついていけるはずがない。
 この状況において、それは無理な話だった。
「イ、ギチッ……」
 妙な静けさの中、あの異形から声にならない声が漏れる。
「大丈夫だよ」
 少女が異形と向かい合いながら言う。
「私が救い出してあげるから」
 その声は全く恐れを感じさせないもので、
 錬は自分の中を蠢くものがほんの少し薄れた感覚がした。
 その少女が誰だか知らないけど、でも安心できると信じることが出来た。
 少女は鎌を持ち直す。刃を前方に傾け、間合いを計るように立つ。
 一瞬の間に出来た、静。
 それが、全ての始まりへと誘う。
「はあっ!」
 少女は大振りの鎌を縦に振り落とした。風を切る音が、遠く離れた錬の耳にも届く。しかし、
それよりも前に異形が体をずらして避けた。鎌は目標を外れて廊下に当たる。 
 廊下は音を立てて削られず、廊下に深くめり込んだ。
「な……?」
 錬はその現象に息を詰まらせる。
 そのまま、異形は体勢を変えないで刃物を矢のごとく少女に向けて貫かんとする。
 彼女は廊下を蹴って、真横に飛んだ。
 そしてくるりと体を回し、通り過ぎようとした異形の腹に下から刃を向けて、
 斜め上に一閃。
 異形はそれこそ紙を切るかのように切断された。
「イ、ビ……!」
 奇声を上げて、二つに分かれた異形は廊下に倒れこむ。下半身は切られたその場に、上半身
は勢いで吹っ飛び錬の下にまで。
「あっ……」
 しまった、と顔色を変える少女。
 異形は錬の目の前で、最後の力を振り絞るかのように腕を振り上げた。
 錬は意味もなく後ろに下がり、壁に背中を打ちつけた。
 異形は腕を最大限に振り上げて、振り落とす動作に入った。
 何も考えず、錬は思わず腕の刃がぎりぎりない部分を掴んだ。
「ッ……!」
 刃の先端が残り数ミリというところで止まる。
 上半身だけだというのに異形の力は強かった。突き刺そうと腕を押し出している。錬は両手
で押さえてやっと均衡が保たれていた。
 焦りと緊張。それが錬を襲う。
 その上、異形の腕の、赤黒い血でぬめる柔らかいものを掴むような感触が錬を狂わせる。
 ずるっ、ずるっ、と手が滑り、刃が少しずつ近付く。
「今行くから!」
 少女の声と足音が伝わる。
 その間にも、刃は顔すれすれまでに近付いていた。
 錬の手を無理やりこじ開けるように、刃は顔面に近付いていく。
 刃と顔面の距離がゼロになる直前、
「あ」
 と錬は声をもらし、
「ああああああああ!」
 反射的に異形を足で蹴り飛ばした。
 錬の手を離れ、反対側の扉にぶつかった異形はすぐさま腕を振り上げて飛び掛ってきた。
「ッ!?」
 あまりの早すぎる行動に錬は思考、動作全てが硬化した。
 錬は覚悟して目を瞑る。
 だが、切られた感覚は数秒しても届かない。
「……?」
 わずかに目を開くと、そこにはさっきの黒マントが映っていた。
「大丈夫、ね」
 そして、さっきの少女の声が聞こえる。
 目を完全に開くと、そこにはあの少女がいた。鎌を右手に持ち、錬の盾になるように背を向
けている。
「闇を彷徨う存在せざるもの」
 そう呟いて少女は鎌を短く持ち、異形を振り飛ばす。
 異形は再び突き当りまで飛び、壁にぶつかりようやく止まる。
「いてはならないものは、消える道のみ」
 少女は異形に近付く。
 上半身しかない異形はそれでも腕の刃を少女へと向ける。
 しかし、彼女の一振りで腕は切断された。
「せめて彼の地では、安息を作れるように」
 少女は鎌を振り落とした。
 その刃は異形の中心を捕らえ、異形は縦に真っ二つになった。
 悲鳴はない。体を裂かれた異形の周りには黒い霧のようなものがまとわり始めた。それは異
形を包んで、そして霧散した時には異形の姿は消えていた。
 呆気なさすぎる終わりかただった。





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