太陽の光が窓から入り込み、教室の寒さを和らげている。
錬はご臨終したかのようにぐったりとしていた。連日、あの異形やら〈死神〉やらにつき合
わされ、精神がぎりぎりまで絞られていた。これが後何日も続くかと思うと錬はもう止めたい
と願いたくなる。
和真はまだ来ていない。いつもは錬より早い(というか錬が遅すぎる)。風邪か何か休みだ
ろうか。
「……暇だなぁ」
錬はひじを立てて顔を預けていた。いつも和真としか話していないので、こういう日はただ
時が過ぎるのを待つしかない。
いつもどおり、生徒たちはお喋りに没頭している。その内容は錬には理解出来ず、それが生
徒たちの輪に入れない理由でもある。
もちろんそれが日常であり、今の平和だ。
(もしかしたら……この中に本体を宿す奴がいるのか?)
錬は疑いの目を向けながら思う。
未来は錬が狙われていると言い、事実殺されかけた。だとしたらその狙う奴が錬の近くにい
る人間だと感づく。見もしない他人を狙うなんてありえない、はず。
しかし、外から見れば皆普通の人間だ。特に狂気を起こす生徒も、誰からも近寄りがたい雰
囲気を出す生徒もいない。
他に錬の知り合いとして該当する人間は4人いるが、錬は即座に否定した。
「そんな……〈吸魔〉にやられるほど弱い心を持っているはずない」
〈吸魔〉は結局心の持ちようだ。弱ければ弱いほど呑みこまれる可能性が高くなるだろう。錬
は彼らがそんな人間でないと信じていた。
その時、ガラッと扉が開く。
同時に生徒がしんと静まり返ったので、担任でも来たのかな、と首を回して、錬は息を詰まらせた。
それは、和真だった。
餓鬼のようにやせ衰えた、月下和真だった。
和真は顔を俯かせた状態で入ってくる。その姿は昨日までの様子とは変わり果てて、心労に
耐えかねたようにげっそりとしている。足取りはおぼつかなく、一歩踏み込むのも困難に見え
た。彼から染み出る空気はもはや毒のようで、近くによる事さえ難しい。彼の周りだけ、何も
かもが死んでいた。
錬は顔を上げ、吃驚の目で和真を見る。
「和……真……?」
名を呼ぶが、和真は返事もしない。
一瞥した目で周囲を見回し、何も言わずに自分の席へと歩いていく。錬の目の前に座った和
真は無言のまま、正面を見つめていた。
錬はその変わりように面食らったが、負けじと声をかける。
「お〜い、どうしたんだお前?」
どうにか明るめに切り出した声も、和真は反応さえしなかった。
耳でも失ったかのように黙り続ける彼の周りはぎすぎすとしていた。この場にいる誰もが会
話をするのを恐れ、隣の女子は自分の居場所まで見失いそうだった。
気が立っているのかというとそうでもない。和真は誰とも話さず、壁に視線を突き刺す勢い
で正面に向いている。
しかしそれが、普段の彼からは想像出来ない恐ろしさを作り上げた。
皆が張り詰めた空気に崩壊しそうになった直前、がらっと扉が開き担任が入ってくる。
「よ〜し、じゃあ……」
そのまま出席確認しようとした担任は、クラスの雰囲気がいつもと違う事に気づいた。意図
を限界に張ったような雰囲気に苦笑いを浮かべる。
「おいお前らどうした。皆して嫌な事でもあったのか?」
「……先生。月下君が……」
ジョーク気味に言った担任に、そんなんでは済まされない女子生徒が言う。担任は頬を緩め
ながら和真を見て、その笑みが凍った。
「……どうした? 月下」
担任の遠慮するような声にも、やはりといった感じで和真は無視する。それどころか視線さ
え交わそうとしない。
だが、後ろから見ていた錬は思った。なんだかわざとっぽくはない。見えていないのだろう
か。
「……月下はちょっと機嫌が悪いみたいだな。他には何もないか?」
異常の和真を放って話を続けた。
季節もあって風邪の生徒が5人ぐらいいた。担任はそれを書き終えた後に連絡を話し出す。
いつも通りの風景で、いつもと違うのがあった。
誰も会話をしない。
全員が担任の話を熱心に聞いている。いつもならこの間も男子が連絡を遮るほどに大きく喋
りだし、担任が注意するものだ。今は違う。
和真の負のオーラが、教室を呑みこんでいた。ここにいる全員が何か行動を起こす事を拒ん
でいた。したら何かが終わってしまう。おそらく誰もがそう思っているだろう。錬もその空気
に取り込まれ、目の前にいる圧力に耐えるしかなかった。
悠久の時のように感じた話が終わり、担任はここから逃げるように教室を出て行く。
それを契機に教室から1人、また1人と生徒が出て行き。数分も経たないうちに教室内の生
徒は和真と錬だけだった。
この場に溜まる、冷気に似たものが錬の心を痛めつける。
錬も教室から出て行きたかった。こんなところにいたら自分の気が狂いそうだった。それが
出来なかったのは和真の心配があったからだ。
「どうしたんだよ、和真」
気に障らないよういつもの口調は抑えるが、当然のごとく反応なし。
声を大きくしたり、何度も肩を叩いた錬だったがそれも無駄に終わり、途方に暮れた。
まずいかなぁ、とか思いつつ、錬は彼の正面に回って顔を覗き込む。
その表情を見ようとして、和真が体を揺らしたので錬は慌てて後ずさった。
のそりと巨人が起き上がるように席を立ち、今までずっと下げていた顔を上げる。前髪の隙
間から、和真の表情を汲み取る事が出来た。
「お前……」
錬は二の句が出せなかった。
和真に、心はもうなかった。
一目で分かった。彼の目にはもう感情の色が宿っていなかった。かつてはリゲルの星みたい
に青く爽やかな感情が篭っていたのに、今は闇だ。
どこまで深く追究しても、闇の一文字だろう。
「おい……」
錬は言おうとして、だめだと自分に歯止めをかける。
何かがあったなど明白だ。それを当の本人に聞こうとなど場違いにも程がある。もしかした
らさらに和真を悪くしてしまうかもしれない。
錬は自分の無力に歯軋りして、教室から出た。和真と同じ場所にいるのがとうとう耐えられ
なくなったのだ。
廊下はかなりの生徒がごったがえしていた。そのほとんどがB組の生徒で、錬が出てきた途
端一斉に振り返った。
しかし、彼の表情から打破されていないと察した生徒は避けるように背中を向ける。錬なら
友達である和真をどうにか出来ると思ったのだろう。
(だったら自分でどうにかしろよ)
錬は心の中で吐き捨て、階段を駆け上がる。向うのは3階の宗助達のクラスだ。
本来他学年の生徒が別の階に上がる事は禁止されているが、錬はこの際どうでもなれ、とい
う気分だった。頼れるのは彼らしかいないのだから。
3階の廊下に出ると、早速三年生から異質な目を向けられる。錬は身長が高い方だが、名札
の色の違いで2年生と区別されるのだ。
錬は奇異の眼差しを向ける3年生の間を渋い顔ですり抜け、目的の人物を探す。
「えっと……、あ、いた」
遠くの方にぼさぼさの髪と、腰まであろうポニーテールが話しているのが見える。彼らも廊
下に出ていた。わざわざ教室から呼び出す手間が省けた。
「唐戸さん、角谷さん!」
ここでは敬語がきまりだろう。錬は急いで2人のもとへ駆け寄った。
宗助と琴は突然現れた錬に驚きを隠せない。目を丸くした宗助が、何事かと声をかける。
「どうしたんだよ錬、こんなところに。先生が来たら終わりだぞ」
「昨日の和真について知りたいんだよ」
2人とも、眉根を寄せる。
「……和真? 何かあったのか?」
「様子がおかしいんだよ。塞ぎこんでいるようで。もしかしたら部活の時からじゃないかと思って」
昨日は未来と調査とかいって部活を休んでいる。その時からすでにおかしかったのではない
かと錬は踏んだ。
宗助はみだらな頭をかきながら、
「悪い。昨日の部活の記憶はほとんどない」
「……角谷さん」
横目で琴を見ると、場にいるのが辛そうに笑っていた。これまでの2年間で、宗助に記憶が
ない時は必ず琴が何かやらかしているのだ。
「私は覚えているわ。ビデオカメラを落としそうになった時に和真が拾ってくれたんだけど……
無感情にもほどがあったわ」
錬は真っ先にビデオカメラに気が行きそうになったが、すぐに戻す。それより大事なのは和
真だ。
昨日も今日と同じだった。何か繋がりがあるように感じて、再度2人に問いかける。
「おとといは? 何かおかしかったっけ?」
宗助と琴は思案顔で黙り込む。こういう時に一緒に悩んでくれるのがありがたい。
彼らに任せて、錬は別の事を考え始めた。
(なんかひっかかるんだよな……)
何か見落としている気がしていた。今の状況でも心痛むぐらい大変なのに、それを見つけな
いと全てが終わる、そんな気さえする。
錬は今日までの過去を振り返る。今思えばとても多忙な日々だった。〈吸魔〉と呼ばれる存
在。それを倒す〈死神〉の未来。そして自分が狙われた。そして今、和真が心を失う……。
「あっ……」
『〈吸魔〉に体を奪われた人間も多少は意識がある。初めの方なら救い出せるの。けれどね、
宿主の感情は次第に乏しくなっていくの』
ズガン、と頭を打ち付けるような衝撃を受けた。
当てはまる。昨日の未来の発言に和真の状態が、まるで最後のピースをはめるようにぴたり
と一致してしまう。
そこから導き出されるのは、和真が〈吸魔〉を宿している事。
「いや、まだだ。過程がない」
錬は必死に否定する。
〈吸魔〉に憑かれた場合、だんだんと心を失っていくはずだ。もしかしたら和真はただショッ
クを受けただけかもしれない。
ちょうどその時、宗助が思案顔を解き、顔を上げた。
「思い出した。あいつさ……天体望遠鏡を見に行った時にいちいち反応が薄かった。声かけて
もあやふやな答えだしさ。なんか……魂宙に浮く、って感じだった」
一番聞きたくなかった、答えだった。
「……それほんとか?」
「嘘をつく必要なんてない。和真の一大事なんだから」
錬の心に重い何かが溜まっていく。
もはや虚言だと言い張れない。宗助の記憶が錬の否定したかった事を裏付けてしまった。
和真が〈吸魔〉の宿主だと。
「じゃあな。せいぜい和真を元気付けてやれよ」
何も知らない宗助達は、同じ教室に踏み入れていく。
錬は立ち尽くした。
なぜ和真が〈吸魔〉に棲み憑かれてしまったのか。一体なぜ、人間を切り刻みたいとかいう
邪悪な心を持ってしまったのか。
いや……今はそれを考えてはいけない。
錬は未来から聞いた話を頭から参照する。〈吸魔〉にのっとられた人間は心を失っていく。
いつかは〈吸魔〉の道化になってしまうのだろう。
それはいつだ?
「もう和真は極限状態だ……」
約30人の気持ちを変えさせるほど、和真は心を閉じている。もうほとんど時間はない。
「あいつしか……これを解決出来ない……!」
錬はただの人間だ。〈吸魔〉に対抗出来る力はない。1人で何とかしようとしても死のルー
トを一直線に進むだけだろう。
呼ばなければならない。彼女をこの場に。
不運にも、そこで授業の開始を告げるチャイムが鳴る。
「ッ……。こんな時に授業なんて受けれるかよ!」
廊下を蹴る。
階段を飛ばして降り、自分の教室ではなく玄関に向う。
錬の頭にはもう1つしか残ってなかった。
友を助ける。それだけが。