ギィ、と玄関の扉が軋んだ音を立てる。
「ただいま」 
 和真は冬の寒さのように冷たい空気を身にまといながら帰ってきた。脱いだ靴をきちんと調
え、リビングへと向う。
 そこには自分の母がいた。
 ソファーに座っている母は編み物に集中していて和真が帰ってきた事に全く気づく気配がな
い。錬は声をかけようとして、やめ、自室へと上がっていった。
 簡素な部屋に鞄を投げ込むと、和真は勉強机に頬杖を立てる。
「いつも通りだねぇ」
 そして、溜息。
 普通ならいつも通りは喜ぶべきなのかもしれない。しかし和真は違った。それこそが忌むべ
きものだったのだ。
 その理由は、机に掛けられている写真立てにある。
「父さん……」
 和真が悲しき視線を向けた写真には、山を背景に和真と父親らしき人物が並んでピースサイ
ンをしていた。
 写真に撮った過去に描かれている笑顔は、もう誰にも向けられない。

 和真の父親は、故人である。

 発見されたのはよく知らない林道だった。発見したのはそこを通学路としている少女で、父
の状態は凄惨なものだった。
 指一本――関節ごとにばらばらにされ、手足の爪は強引にはがされている。顔面は切り刻ま
れたように変形しており、頭から脳が見えるぐらい、切り開かれていた。内臓も父の死体の周
辺に散りばめられていた。それを知った母は3日間気絶したほどである。
 自分の父がいない。その現実は今も和真を蝕み続けていた。3年間その思いが消え失せない
ほど、父が大切だった。それは母も同じだ。
 それだから、父が欠けた家族はほころびが生じた。
 家族のために和真はバイトをしている。だからいつも帰りは10時ごろとなり、とても疲れ
るのだ。
 それが、和真の『いつも』だった。
 そのいつもこそが和真を胃が締められるぐらい苦しめていた。何で自分がこんな目に遭わな
ければならないのか。いつまでもこうしてなければならないのか。道端で親子連れを見るたびに、
悲しくも嫉妬の目を向けてしまう。
 唯一、それを忘れてくれるものがあった。天文部である。
 本人は気づかずとも場を和やかにしてくれる琴。部長さながらに部をまとめている、実に兄
のような宗助。妹のように可愛らしく、落ち着きがある唄奈。そして……、言い換えが出来な
いぐらい大切な親友、錬。
 いつもいつも、その時は心から楽しめた。
 ただその中に入れた、それだけでなぜか嬉しさを感じた。
 ずっとこれが続いて欲しいと願っていた。
「でも……」
 今は違う。
 何にも楽しくない。疲れは感じてこないが――いや、それすらも感じないといった表現のほ
うが賢明だ。
 人間に作られたロボットみたいに、感情が湧き上がらない。
 今はうわべだけの表情を顔に覆っているが、彼らは察しやすい。いつその仮面が破られるか
少し和真は心配になっていた。
「何で……だろうな……」
 理由は不明だ。ただ単にそう思い始めたのか。  それとも、元々思っていて、それを否定してきた自分がいただけか。
 なんとも不愉快な考えを抱きながら、和真は体が冷えたためりびんぐに戻る。まだ母毛糸を
編んでいた。
 今度ばかりは和真も声をかける。
「母さん」
「……ん」
 呼ぶと、母は真紅の毛糸から目を離した。光ない目が和真を捉える。
「和真……いたんだ」
「さっきからだけど。気づいてなかったじゃないか」
「そう……。食事は好きにして」
 ――かつての母なら、こんな言葉をぶつけない。
 和真はしぶしぶキッチンへ向う。冷蔵庫から卵を2つ取り出し、油を敷いたフライパンに割っ
て入れる。半熟になったところでかき混ぜ、後は余熱で放置して次の作業へ。適当に野菜を切っ
て、かき混ぜた卵と一緒に盛り付け、トーストを焼いてテーブルに持っていった。朝食みたい
な夕飯だが、もう気にするものでもなくなった。
 慣れた、というよりは慣れるしかなかった。
 和真は元々料理の才能なんてない。だから簡単なものしか出来ず、せいぜい簡素なもので精
一杯なのだ。
 せめて母が作ってくれれば……、というのは夢だ。もう彼女に家事を頼む事など無理に等しい。
 父が半年前に死んで、母の心も崩壊した。最初のうちは彼女も気丈に振舞っていた。そして
帰ってくると、必ず編み物をしていた。
 それが最近、編み物しかしなくなっている。会社には行くが、そこでの動きは機械のようで
一度会社の人から何とかしてくれとせがまれた事もある。
 それでも、和真の答えは「どうにも出来ない」だった。
 無理なのだ。
 母の心を取り戻すには父の存在が絶対条件。そして死んだ者は生き返るはずがない。母が正
を取り戻すのは、もう幾年経とうと成せる話ではなかった。
 和真は、身近な存在なのに何も出来ないのが、とても悔しかった。
 母を慰める事も出来ず、かといって父のあだ討ちも出来ず。意味もない時間が通り過ぎてい
くのを指をくわえて見つめているだけ。傍観者としての役割しか出来ない自分に憤る、それしか出来なかった。
 力があれば、と思う。
 守るべき者を守り、排除すべき者を叩き潰せる。そんのような力が。
 己の奥歯も噛み砕きそうな勢いで、和真はトーストをかじった。
 和真がそこまで力を求める理由はある事実が元だ。

 和真の父親が、他殺だからだ。

 事故でもない、病死でもない。全く面識のない人物から殺されたのだ。捕まって警察から動
機を聞いた時には頭が熱くなった。誰でもいいから殺したかった。ただそれだけの、単純不明
確な動機。
 しかも、警察はその男をありえない事に執行猶予付きにしたのだ。すぐにでもぶち込め、い
や普通死刑だろうが。その時の和真はそんなように身悶えていた。その、忌まわしいほど幸運
な男の名は生涯忘れる事はないだろう。
 和真はそいつを殺したくて仕方がなかった。
 ここまで家族を崩壊させてくれた男を見逃すわけにはいかない。せめて父と同じように、指
一本ばらばらにして殺したい。
 しかし出来ない。和真は元より気の弱い性格だった。凶行にはしろうとすると、心が勝手に
静止をかけようとする。
 殺したくても殺させない、心が起こす、そんな矛盾。
 分かっていても、和真は憎悪の念を絶やすのは無理だった。
「くそっ、くそっ……」
 和真は親指を歯の間に滑らせ、ぎりぎりと言わせる。力を入れすぎたか、みちっと奇妙の音
と共に親指から血が滴ってきた。
「っ……」
 火傷を負ったよう痛みに和真は顔をしかめて指を離す。紅き血は指を伝って食器にたれ流れ
る。傷口は傷むが、血を止めようとする気にはならない。和真がそんな状況になっても、母は
ずっと毛糸と苦闘していた。
 何もかも狂ってしまった。
 和真は辺りを見回す。何年経っても変わる事がなかった、ごく普通のリビングだ。
 しかし、そこを取り囲む空気は一変してしまった。
 冷えた雰囲気が包み込み、和真を、母を、そこにいる全ての人物をその氷の刃で切り刻んで
いきそうだ。いくら部屋が暖かろうと、決して取れるものではない。
 和真は朝食紛いの夕食を食べ終え、流しに持っていって食器を洗う。大雑把に濯いだ食器を
乾燥台に入れて、和真は母の目の前を通り過ぎて自室に戻った。
 電灯を消し、足元も見えない状態で和真は進み、勉強机の明かりだけを点けて、勉強机で手
を組む。
 どうなろうと戻ってこない、楽しかったあの日々。
 戻ってこなくても、せめてその恨みを晴らせるのなら、和真はもう自分がどうなろうと構わ
なかった。
 たとえ、悪魔に身を売ろうと。





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