夕日もすっかり沈みこみ、一寸先さえ分からないほど夜闇に包まれた公園。その中心で錬は
動き出せずにいた。
「……」
 底知れぬ違和感が感じられる。
 これはそう……自宅前で感じたような気配だ。水の中に塩を混ぜたような微々たる変化で、
日常に異物が混入している。そんな気がする。
 それは何か。すでに当てはあった。
「……」
 だからこうして、錬は止まっていた。無闇やたらと動いて相手の懐に入ってしまえばそこで
終わりだから。
 そして 音がした。 
 鳥の鳴き声でもなく、ごみが風に舞い上げられる音でもなく、人間が忍び寄るような。しか
しここにはおろか、その周りさえ誰もいない。
 それは、後ろから。
「ちっ!」 
 錬は舌打ちをして振り返る。
 月を背景に、黒い皮膚に赤眼の〈吸魔〉の欠片が映し出された。
 自宅のマンションで出くわした異形と同じだ。だが、この前と違い、両腕が刃に変わってい
る。
 しかし、なんにあれ狙われているのは明らかだった。欠片は両腕の刃、その片方を月にかざ
している。切っ先は錬に向けて。
 それに気づいた錬は素早く右に転がり込む。そこに鍬のように刃が突き刺された。
 即座に立ち上がり、錬は公園を飛び出した。その後を欠片が追う。
「ど、どうすればいいんだよ!?」
 具現化した恐怖に錬は思考が壊れそうだった。
 錬は左に見えたわき道に滑り込む。そこはごみが散らかっていて相当足場が悪く、錬の動き
を鈍らせた。
 明かりもほぼない状態で逃げ続けると言うのは難しい。足元に邪魔な物が落ちてたり、目の
前が壁だったりする時に気づかないのだ。それで時間を食ったりすれば、確実にあの異形に八
つ裂きだ。
 実は、錬はこの道を知らない。
 唄奈に手を引かれた場所は錬も全く記憶にない所だった。そこから未来の下へ向おうとして
も、その方向が分からないのだ。
 地理の疎さを呪いながら進む錬の先に、大きな光が見える。
「ここを……抜ければ!」
 錬は足に力を入れ、細いわき道を飛び出した。
 その先は車が行き交う大通りで、今も深夜に近いわけじゃないので平凡並みに車が通ってい
た。明かりもある程度ある。
〈吸魔〉は人1人いれば襲わないはず。別に知り合いでなくともそれは関係ないはずだ。
 だが。
 安心しきった錬の背後を、塊みたいなものが飛んでいった。
「……」
 物を凝縮させたような塊は歩道を越えて車道まで飛んでいく。しかし爆発音を聞く事はなかっ
た。タイミングが悪かったら、誰か犠牲になっていただろう。
 錬は何か、背後に忍び寄るような気配を感じた。
 恐る恐る、錬はそれを確認する。
 目に映るは、月光に照らされ黒く光る刃を横に構えた異形の姿だった。
「なっ……!」
 咄嗟にしゃがんで首を狙った刃をかわし、錬は再び逃走を開始した。
「おかしい……、あいつが言った通りじゃない」
 錬は走りながら、冷静になってみる。
 誰か1人がいれば襲ってこないという理屈が通っていない。ここは樫崎市屈指の大通りであ
り、車の通りは伊達じゃない――
 ――違う。
「歩道に人がいない……?」
 後ろから凶悪なものが迫っているのにも関わらず、錬は立ち止まってしまった。
 歩道に誰一人として姿がなかった。いつもなら昼夜に関係なく人で溢れている歩道が、いま
や車のエンジン音しか聞こえないほど静かだった。さっきから車しか数えていなかった錬は、
これに気づくのに遅れた。
「ギ、ギギ……」
 錆びた鉄を擦るような、声とは確実に言えない『声』。
 はっ、と気づいた錬は駆け出す。その直後、錬がいた所には分厚い刃が突き刺さった。アス
ファルトの欠片は散らず、バターにナイフが入るようにすっ、と入ったような感じだ。
 考えている暇はなかった。一分一秒でも逃げる事に徹しないと自分の命を落としてしまう。
錬は再びわき道へと駆け込んだ。
「くそ……いつまで追ってくるんだ?」
 錬は落ちている缶を踏み潰しながら思う。
 背後には、狭い道に速度を落としながらも、それでも錬をしつこく狙い続ける欠片がある。
どうやらあれには体力が無限大にあるらしい。
 こうまでいくと逆に錬の体力が心配になるが、その必要はなかった。錬は長距離が得意で、
どういうペース配分をすればどこまで持つかをしっかり把握していたからだ。
 右、左、右、左、右……。
 それの繰り返しを続け、錬は再び表に出た。
「ここもかよ……」
 そして絶句する。
 ここにも人は存在してなかった。あるのは意味もない道路を照らすかすかな光だけ。今度は
車さえなかった。
 ドゴン、と木箱を爆破するような衝撃音。
 振り返ると、あの異形が地面を放射線状のひびが入るぐらいに踏み潰していた。
 そして、飛び上がる。
「なっ……」
 一体どこまで脚力があるのか。バッタのように2メートルぐらいは軽く飛び上がった異形は、
両腕の刃の先端をある1点にそろえた。
 直後、錬に向けて急降下を始める。
「やばっ」
 ほとんど反射で、錬は前に足を動かしていた。
 標的を失った刃はそのまま気持ちよく地面へと滑り込むように刺さる。異形が刃を抜き、振
り返るまでに錬はそばにあった小道を走っていた。
「うわぁ……危ねえ……」
 錬は心臓バクバクさせていた。
 あれがあのような攻撃をしかけてくるとは思わなかった。ほとんど反射だったが、タイミン
グを間違えれば頭から串刺しだっただろう。
 しかし、これで振り切ることは出来たはずだ。あの道は3つに分かれていた。振り返られる
前に道に入ったから、見失ったはず。
 錬はとりあえず一安心して、腰に手を置く。
「なんで人がいなかったんだ……?」
 やっと出来た時間の間に、錬は考える事にした。
 あんなのは異常すぎる。人が全くいない時間を錬は始めて見たぐらいだ。まるで誰もが家に
篭ったような……?
「……いや、篭ったんじゃないな」  ただ単に近付かないだけ。
 欠片がいる所へ誰も行こうとしていないのだ。帰る道などいくらでもあるのだから。それを
確立させる証拠はないが、そうとしか考えられない。
「誰もがあれを避けるようにしている。でもなんで。これもまさか〈吸魔〉と関係があるのか
……?」
 腕組みながら考えていた錬は、ビルに挟まれた道の先にとある物体が目に映り、頭の中が全
て抜け落ちた。
 黒の光沢がある、刃。
「……」
 言語というものそのものを忘れて、その正体を探る。
 満月を背後に現れたのは、人間をかたどったような姿と黒い肌、それに紅い目。間違いなく
さっき追い払ったはずの欠片だった。
「う、あああああああ!!」
 情けないぐらいの悲鳴を上げ、錬はもと来た道を逆走した。
 なぜ居場所を探られた? 確かにあれの目を盗んで姿をくらます事が出来たはずなのに、こ
こまで早く見つかるのは、なぜ。
「考えている場合じゃない。逃げないと!」 
 無駄な思考を振り払い、錬はとにかく集中して逃げに徹する。足元のごみを蹴り飛ばし、明
かりが1つもない道を必死に目を凝らして異形との距離を稼いだ。
 だが、錬は途中で違和感を覚える。
「……こんな道通ったか?」
 錬は自分がどうやってここまでたかはまだ記憶にあった。しかし、今走る道はその記憶に存
在しない風景を作っている。おかしい、と心の中で首をひねりながら錬は角を曲がって――
違和感が絶望に変わった。
 行き止まり。
「嘘だろ……」
 呟き、錬は目の前にそびえる壁を見上げる。
 高さは感覚で測りきれないほどある。突起が目立たないその壁はおそらくビルの一部なのだ
ろう。辺りを見回すが扉らしきものは一切見当たらない。
 袋のねずみだ。
 キン、と金属を鳴らすような音で、錬は後ろを見る。 
欠片が、両手の刃をぶつけあっていた。その様子はどうも、手を組んで指を鳴らすような動作
によく似ていた。
 絶望が、恐怖に変わる。
 錬は全ての視界が霞んでいくようだった。ただ1つ、目の前の醜態な姿をしたものがくっき
りとで目に映る。
 真正面にいる化け物はゆっくりと、次は外さないとでも言うかのように近付いてくる。そん
まま腕を振り上げた。刃がかすかに差し込む月の光を受けて、死へ誘うかのように黒く照らさ
れ――
 
 その直後、欠片の腕が切断された。
 
「……え?」
 異形の二の腕部分が突然ずれ、刃のついた腕がぼとり、と生肉を落とした時みたいな音を立
てて地面に落とされた。
 断面から見えるのは血肉ではなく、黒い靄みたいなものだ。渦巻くでもなく、あれを作るた
めに存在しているようだった。
「何……が……?」
 困惑した錬の瞳に飛び込んだのは、それ以上の困惑を呼び寄せた。
 それは鎌。大振りの、誰か持っていたのかさえ記憶に新しいモノクロトーンの鎌が地面に垂
直に突き刺さっていた。
「馬鹿」
 上空で声がしたかと思うと、錬と欠片の間に、艶やかな長髪を振りまいて、何者かが降り立っ
た。
 黒いマントに身を包んだその人物は、錬に振り返って愛らしい顔を見せる。
 未来だった。
「お、お前は……」
 強張る表情をした錬を見て、未来は少し顔をしかめる。
「なにやってるのよ。待ち合わせ場所にはこないし〈吸魔〉の反応さえ出ちゃうし。君の叫び
声を聞いたから来れたけれど、間に合わなかったらどうするつもりだったの?」
「……」
「……ふぅ。まあ、その話はこれを片付けてからにしようか」
 鎌を引き抜き、未来はその切っ先を異形に向ける。あの温厚そうな目は鋭くなり、まるで狩
人のようだった。
〈吸魔〉の欠片は片腕を失ったのにも関わらず今にも襲い掛かってきそうだった。人を殺す事
に対する執着心はなくなってない。
 ぴりっと肌が痛むような緊張感を感じてくる。
 瞬間、未来が動いた。
 鎌の刃を上に向け、未来はゼロ距離まで近付いた。異形の残った腕を狙って下から引き上げ
る。音もなく切れた腕は後方に弾き飛ばされ、虚空の闇に消えていく。
 そのまま後ろに回った未来は鎌を水平にして、真横から2つにした。欠片の形がずれる前に
すかさず飛び上がって縦に裂く。そして、着地と同時に下半身の足を一気になぎ払った。
 未来が始まりの位置に戻ると、欠片は時が進み始めたかのようにばらばらになった肉片(?)
を地面に打ち付けた。
 神速。
 未来はそうとしか形容出来ない動きを見せていた。
 瞬く間に肉片(?)となった欠片はもはや動く気配さえない。未来はそれに歩み寄って、唱
え始めた。
「闇を彷徨う存在せざるもの。いてはならないものは、消える道のみ。せめて彼の地では、安
息を作れるように」
 早口で言い終えた未来は、欠片の頭部めがけて鎌を振り落とした。
 欠片の周りに黒い霧のようなものがまとわり始める。それが欠片の全てを包み込んで、解け
るように霧がなくなると、そこには何もなかった。
 誰も目のつかない路地の中、空に浮かぶ天体が錬と未来を照らしていた。





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