暴れるように激しい冷風が、かりそめの体を突き抜けていく。
「風強いなぁ」
未来は高層マンションの屋上で、空を見上げながら苦笑していた。
彼女の姿は黒に染まった長袖Tシャツとミニスカート。マントは少年の家に置いてきた。こ
んな服装を誰かに見られたら、その人間は見る物を疑っていただろう。しかし未来は温度を感
じる事はないし、そもそも他の人間に見られない。
成り行きで守るはめになった少年は、今は夢の中だ。眠たげな顔をよこした時は、自分もも
う一度寝てみたいと思えたものだ。
――何を考えてるのだ?
頭にしみこむように響く、どこか貫禄のありそうな女の声。
未来は不思議がる事なく、答える。
「またゆっくり寝てみたいなぁ、ってね」
――〈死神〉となった以上、それは無理な話だがな。
「まあね」
おどけるように舌を出す。その表情に心からの笑みはない。
「不条理だよ。食べる事は出来るのに、寝るのは駄目だなんて」
――普通の人間なら喜ぶと思うのだがな。
頭に響く声は常に一定だ。
――食べる必要がないのは、それによって死ぬ確率が0になる。寝る必要がないのは、それ
によって時間を減らさなくて済む。
「けどね。それはそれの辛さを知らない人達が思うものなの」
言ってる未来はそれを思った事が全くない。食べる事、寝る事が人間としての権利だとも思っ
ていた。未来にとってはそれが今を生きる上でとても大切だったし、今としてはそれがとても
恋しい。
今は……〈死神〉だ。人間じゃない。だからその権利が剥奪されたと思っている。
「私には必要だった。それが『生きる』って意味だったから」
――本当に、そなたは特別だな。
「余計なお世話」
口を尖らせて、未来は目を凝らす。
あの少年の言うとおり、ここの星はとても見栄えがいい。4等星ぐらいの星までくっきりと
輪郭を表していた。
未来はどういう星座があって、それの代表の星とかもよく知っている。例えば今中心にいる
おおいぬ座の代表は、シリウスだ。
未来は、それを過去の思い出として残っている。
絶対なくしてはならない、大切なものだ。
――あの少年、我に気づいたな。
声は平淡に響いてくる。
遠い昔の記憶から覚まされた未来は、間を作ってうん、と言う。
「分かってた。まああれほど変わってたら気づくだろうけど」
――そうじゃない。そなたの声と同調してたはずだが。
「馬鹿じゃないの。口調が全く違うじゃない」
声は押し黙った。
安易に馬鹿と使った事に未来は遅くして口を押さえる。未来からして、この声の主に暴言を
吐いてはまずいのだ。
――そういえばそうだったな。
しかし、声は意外とあっさり認めた。
声の主は強情なところはほとんどなく、自分の非は素直に認める。それは未来が4年間接し
てきて見つけた唯一の特徴だ。
未来は正反対のようなあの少年を思い出し、くっくと小さく笑う。
――何を笑っている。
「ごめん。……で、そこじゃなくて」
未来は切り返すように語調を控える。
「……彼、私の声に気づいたね」
――正確には我の声だがな。
〈吸魔〉を狩る時、未来たちはある文を言わなければならない。それを俗に〈鎮魂歌〉と言う
が、それはこの声が担当している。そしてこの声は、霊感がある人間でも気づく事はありえない
のだ。それは声が人間の理ではなく、『世界の理から外れている』からだ。
それに、あの少年は気づいたのだ。
「これまでの彼の様子からまさかと思ったけど、本当に声を認識していた。そんな話、聞いた
事ある?」
――ない。が、それを裏づけられる事実ならある。
声の凛としたものに、未来は押し黙る。
確かに1つある。だがそれは、彼にはありえない。そうだったら未来自身が真っ先に気づく
はずだ。
「もしそうだとしても……彼がなぜ人から認識できるの?」
――さあな。我にも分からない。
声は諦めたように語尾を下げた。声が分からないというならば、当然未来にも分からない、
そういうものだ。
未来は溜息を交えて、一言。
「……今は〈吸魔〉を退治しよう」
――そうだな、それが先決だ。
未来は目を閉じ、全ての神経を第六感に注ぎ込む。どうやら今は〈吸魔〉はどこにも現れて
いないらしい。
まぶたを上げ、未来は屋上から望める景色を見つめた。
夜の遅い時間だけあってもう光は点々としている。ほとんどの人間がすでに就寝しているのだろう。
――今回は典型的だな。殺意が抑えきれないのがよく分かる。
「そうだね。理性が全くない。刃物を使うから……それによって殺された知り合いがいて、仕
返し……かな」
刃物は殺意の象徴だ。
この〈吸魔〉を宿した人間は、相当深い傷を負ったのかもしれない。そしておそらく、その
目的は達成できている。
「最初の被害者だけど、私テレビで見た事がある」
半年前――未来が偶然電気屋の前を通った時、ニュースである殺害事件が起きたというのを
報道していた。これ以上ない残虐な殺し方をしたようで、犯人の動機はただむしゃくしゃして
殺したかったとか。ありきたりなものだったので、未来は特に注視しようとせず離れた。その
時に出ていた顔が、5日前に見たその被害者だったのだ。
自らが手にかけた死体と同じ、指1本までばらばらにされて。
無造作に置いてあった体の部位は見る影もなく、どこがどう繋がっていたのかすら分からな
いほどばらばらだった。未来はすでに耐性が出来ていたが、普通の人間なら確実に吐瀉物を出
していただろう。
その死体からは〈吸魔〉の気配が残っていたから一瞬で分かった。未来はその人間に殺され
た者の血縁だと事をつけたが、あいにく誰が殺されたかまで見ていなかった。
「ああもう。テレビちゃんと見とけばよかった」
――情報収集は大切だぞ。
冷たい言葉を受け、未来はしゅんと背中を丸める。
「ごめん。……けれど、〈吸魔〉は彼を狙っている。だから彼の友達辺りが怪しいものだよね」
――今頃だが、どうして奴は狙われているのだ?
「まさか彼が殺した人の家族……なわけないよね」
少年の家族は2人とも健在だ。親戚だとも到底思いにくい。優しそうな彼の両親とは対照的
に、被害者の顔がごつすぎるからだ。
別に可能性がないわけでもないが、低いものには頼らない性分だ。
「う〜ん。やっぱ学校に潜入した方がいいんじゃないかな」
実を言うと、未来は学校に行ってみたかった。
14でとある理由で人間の世界から外れ、この道に転じてきた。なので未来は高校というの
を知らない。中に入ってみたくて仕様がないのだ。
それを禁じているのが、この頭に響く声だ。
――この世の物に触れようとするな。迷いが生じる。
「もう出来てますよ〜ぅだ」
未来はふん、と鼻を鳴らす。声は手を焼くように唸り、黙った。
それが怒りだというのを知っている未来は、慌てて話を変える。
「で、どうするの? このまま相手の出方を待つ?」
自分で言ってなんだが、未来はこの戦法は嫌いである。
理由は2つ。待つというのは〈吸魔〉が欠片を残すのを待つ事だ。即ち被害者を出してしま
う。そうなるとすでに、守り抜くという自らの行動理由から逸れてしまい、不快感しか
生まれない。みんなのために1人犠牲なるとは、自分が許せないのだ。
もう1つは、〈吸魔〉は日によって成長し、やがて巣くった人間と融合してしまう。そうな
ると手遅れになり、必ず滅しなければならない。これは未来が最も嫌いとする最終手段なのだ。
つまり、出方を待っていたらその時がきてしまうのだ。
結果、残る未来は悪いものだけだが、未来が提案でまずそれを口にしたのは苦々しいわけが
ある。
それしか行えなかったからだ。
「……いい加減私はしたくない。折角、力があるのに、待つだけなんて」
目を伏せ、嘆くように言う未来を夜の闇が包む。
「もう誰も死なせたくない。嫌だよ。目の前で人が死んでいくなんて……」
――それが〈死神〉の役割だ。
声の主は唯一の接点である、話す事をやめて沈黙を作り、再び頭に響かせた。
――この話はやめよう。そなたが辛くなる。
「うん……そうだね」
潤み出した目をこすり、未来は無理矢理笑みを出す。
「それじゃあ1人にしてもらえない? 私……」
――分かった。
それを最後に、ぷつんと電源を切るように声が途切れた。
空気を震わすように余韻を残し、その後を音という存在がなくなったと思わせるほどの静寂
がやってくる。未来はただ1点を見つめ続ける。
実は、未来はある推測をしていた。推測だから正しいとは言えない。けれど、起きてしまう
気がしてたまらないのだ。
あの少年が、死んでしまう未来を。