ルアは厳しい寒さの中、湖のほとりに立っていた。
辺りは暗い。夜空を全く見せないこの空は、なぜそうしているのだろうと疑問になる。輝く
星も、煌く月も、あの周りでしか見られない。
「これも、なんだか日課のようになってしまいました」
ルアは笑う。あの少年に言われて直そうとした敬語だが、未だにそれが外れる事はなかった。
習慣かな、と適当に思う。
あの日から、ずっとここに来ている。
誰を待っているのか。その答えはとうに出ていた。4日前、突然現れた1人の少年。彼は、
誰も来ないと思っていたルアに輝きを渡し、さらには『ルア』との深い意味のこもったあだ名
を作ってくれた。
ルアというのはとっても長い文を縮めた古語だ。その意味も長く、『どんな辛い出来事があ
ろうとも、決して負けない強い心』。
彼にとっては適当につけたのかもしれない。それでも意味を知っているルアにとっては、涙
まで出てしまうくらい嬉しいものだった。
たった1日だけのものだったが、それだけで私は十分だと思っていた。
だけど、彼はまたここに帰ってきてくれると言ってもらえた。だから待っている。ずっと
ずっと、来てくれる日まで。
はっきり言えば、それしかやる事がないから。
「なんででしょうね」
ルアはどうしてそこまで思えるのか、首を傾げる。
なぜ彼を待っていられるのだろうか。実際ルアにも真意は分からない。もともと、彼が必ず
戻ってくるとは限らない。忘れてしまったかもしれないのに、それでもどうして待てば来てく
れると思えるのだろうか。
彼を信じているから。ならなぜ、信じていられるのだろうか。
「……」
それが1つの答えを導いた時、ルアは顔が赤くなってしまった。まるで血が顔に逆流してし
まったような。寒いというのに、ルアはどこか暑いとも感じる。
「案外、近いものだったんですね」
ふふ、とルアは小さく笑う。夜は身を切るような冷たさだというのに、ルアの周りにはどこ
か暖かさがあるようだった。
ルアの家にはなぜか本が多い。それを呼んでいるといろいろな知識を得るというもので、
『妹を好きになる兄=シスコン』というのもそこから収集した。それを彼に当てはめるとルアは
妹になってしまう。それだけは避けたい。
そこから、『人を大切に思える事』というのを知った。
それには3種類ほどあるらしい。1つは家族を守るために、2つ目はみんなを守っていきた
いために、そして最後は、最愛の人を守るために。
ルアは家族というのを知らないし、慈愛なんて満ちているとは思えない。なのに、彼を大切
な人として認識している。
それは、やはりそういう類に入るのか。
「それとも、初めて会った人だからでしょうか……」
初めて、の言葉がしみじみと身に入る。今まで、というよりはつい最近まで人に会わなかっ
たのだから、それは大切かと思えるかもしれない。
だが、ルア自身それは違うような気がしている。
うやむやしています、とルアは放棄して湖に目を凝らす。
昼間は青く澄んでいるこの湖も、今は夜をそのまま溶け込ませたかのようだ。湖に臨む位置
で、ルアは胸の前で手を合わせる。
「――――――」
そして、歌い始めた。
もはや音ともとれるその『声』でルアは旋律を歌う。その高らかな音色はゆっくりと、空気
を響かせて伝わっていく。光が入らないこの土地も、少し輝いたようだった。
川のせせらぎのように、ルアは歌声を響かせる。
この歌の名前はルアは知らない。自然と頭の中に入っていたものだ。だけど、それは深い意
味があるような気がしていた。
あの時も、これを歌って少年はやってきた。
だから、同じように歌えばきっと来ると思っていた。
だからこそ、4日間ずっと声をだし続ける事が出来た。どれだけのどが辛くても、それでも
絞って声を出した。
だけど、しわがれた声になった時はやめた。それだと伝わっていかないような気がしたのと、
彼が来ない気がしたから。
「――――――――」
『声』は高低をはっきりと表し、その華やかな色がはっきりと目で見えるようだった。
今日の声は今までよりはるかに調子がいい。おそらくは夜というのがあるのだろう。ルアは
気分を良くして、歌い続けた。
必ず彼に届くように。
雷牙に気づいてもらえるように。
「――――――――――ッ」
どれだけ歌ったのだろう。疲れたルアは1度口を閉じた。そして、何気なくに湖の遥か上方
を見上げる。
そこには何もない。ただ遠くに岩が見えるだけの空間。
だが、その空間が歪んだ。
「え……?」
ルアは目を疑った。何度こすっても、その幻覚は消える事すら知らない。空間を裂いて生ま
れてきたような、赤と黒が混ざったような色をだすその歪みは、ずっと宙を渦巻いていた。
それが長く続くと、その歪みは虚空へと消える。
だが、ルアはのがさなかった。その歪みが消える直前に、人のような何かを湖に落としていっ
たのを。
「まさか……!?」
その姿は黒のコートに身を包んだ少年。そして見覚えのある髪型に、ルアは思わず手で口を
抑えた。
それは、あの時の雷牙に他ならなかった。
「ライガさん!」
ルアは必死に叫ぶ。ぼろ人形のように落下する彼は手が浮いているように真上に伸び、意識
がなくなっているのを感じさせた。
やがて雷牙はそのまま吸い込まれるかのように湖の中に入った。大きい石を投げ入れたよう
な鈍い音が空気を静寂を突き破る。
ルアは、雷牙が落ちたところに目を凝らす。
一度中央に吸い寄せられた水は、その力を失って波紋となって広がる。ルアは、その波紋の
中に一際目立つ色を見た。
湖の、黒だけど青さも残す水に混じる、赤黒いそれは、
血。
「嘘、でしょう……?」
ルアの体が小刻みに震える。雷牙は血を流していた。それも、黒の湖に目立つほど大量に。
あれではおそらく上がれない。水面に浮上する事が出来ない。
意識のない彼はおそらく沈み、そして……。
「いやっ!」
連想されたものをルアは頭ごなしに否定する。
だからといってどうする? ここには彼を助け出せるようなものなどない。家に戻ればそれ
もあるかもしれないが、戻って探しているうちに彼は奥底に沈んでしまう。今あるのは、うろ
たえている自分しか……。
自分?
「そうでした」
ルアは笑う。「私がいるじゃないですか」
ルアは寒さをしのぐために羽織っていたスカーフを脱ぐ。出来るだけ荷物のないようにして、
作業に取り掛かれる体勢になる。
「前、私言いましたね。あなたにはたくさん助けられたと」
湖の縁に、ルアは立つ。
「だから、お返しです」
これで、あなたと同じですね。ルアは心でそう思った。
ルアは極寒の水に向かって地面を蹴って、頭から入るようにして湖へと飛び込んだ。バシャ
ン! と激しい水しぶきを受けながらルアは潜る。
湖の中は上から見たのと同じで暗い。だが、それは濁っているわけではなく、遠くまで見渡
せる事が出来た。ルアは雷牙の姿を必死に探す。
遠くの方で、紅く昇っている線を見つける。
(あれですね……)
ルアはそれめがけて手をかいていく。紅い線は下から上へと延びていて、その終着点は全く
見えない。この湖がどれだけ深いか、今になって思い知る。
(これを辿れば……)
彼は血を流していた。あの状態からはとても動けそうにはないから、そのままで沈んでいっ
ているのだろう。これを辿って深く潜れば、絶対に辿り着ける。
ルアは下へ行くよう手をかいた。泳ぐというのは初めてだが、それなりにうまく泳げている
と自分で思う。
だが、下に行くというのは簡単には行かない。水の抵抗と浮力の関係で、下へは進みにくい
のだ。それを知らないルアは、とにかく必死にかく。
血の色が順に濃くなっていく。それを、雷牙に近づいているとルアは捉えた。
やがて底とも思える黒の空間が見えてくる。そこに人影はあった。
雷牙だ。
(ライガさん……)
雷牙は服の下が見えるぐらいに焼け焦げていた。それに、右足のすねから血を流している。
それが糸のように細い線となって、ルアの元まで延びていた。
変わり果てた姿に、ルアは一瞬絶望を味わう。だがそれを振り切って、ルアは彼の元へと寄っ
て、その手を肩にまわした。
と、その時、
「かはっ……」
ルアの肺が悲鳴を上げた。
長時間空気を吸っていないその小さな体は、既に酸素が欠損状態になっていた。ルアは苦し
さで口を開け、大量の水が流れ込む。
「……!!」
乾いた喉に刺激するようなその水をルアは吐き出したかった。しかし、口を開ければ再び水
が流れ込む。ルアはその水を飲み込んで、上へと急いだ。
苦しい。
酸欠からか、頭はぼうっとしてきて、目はどんどん色をかすんでいく。それでもルアは諦め
なかった。
最後の最後までルアは上へと昇った。
空から水の中に光が差し込んでいる。ルアはそれを掴み取るかのように手を延ばし、そして
水面へと這い上がった。
「……ごほっ!」
水から出た途端一気に肺の中を酸素が満たし、思わずルアはむせる。最後の余力を振り絞り、
ルアは陸へと上がる。
ルアは彼の顔を眺める。そこには息をしているような様子が一切見られず、まるで本当に死
んでしまったようだった。
自分の事も忘れて見続けるが、反応はない。
「私は認めません……」
ルアは泣き出しそうな顔になる。
「あなたは……帰ってきてくれると。そう……言ってくれましたから」
目から溢れそうな涙を堪え、必死に彼を見続ける。
認められる、わけがない。
ここまでに自分を変えてくれた人間が死んでしまうなど。
その時、雷牙の眉がほんのわずかにピクリと動いた。
一覧へ
次へ