「……、初めまして」
 とりあえず、雷牙は頭を下げた。
「僕は譜堂雷牙。それにしても、すごいね」
 雷牙は辺りを見回す。当たりは木々に囲まれて、地面は草や花があざやかに彩っている。鳥
のさえずりも、どこかから聞こえてくるようだった。
「そうですね。ここは確かにいろいろな木が満ち溢れています。生き物もたくさんいまして、
それなりに暖かいですし」
 少女は優しく言う。
 今の自然環境は極めて寒い。その事は肌で感じているから身に染みており、それは世界で同
じだと学者が言っている。
 だから、この春の陽気のような暖かさは本来作られない。ここに来る間に何かないかを雷牙
は探していたが、何も見つかる事はなかった。
 生き物も、もう穏やかなものはいない。鳥なんて、この寒さに耐え切れない種が多すぎて、
何匹も絶滅危惧にさらされていた。
 そんなわけで、ここはありえない空間なのだが。
「考えていると、時間長くなりそうだね」
「何がですが?」
 少女が不思議そうに見つめてくるので、雷牙はあはは、と笑みで返す。
 どうやらこの少女は何も知らなそうだ。おそらく昔からここに住んでいて、それが普通になっ
たようなものだろう。ちょうど、見知らぬ土地でもその言葉が話せるようになるみたいに。
 雷牙1人でこの土地について調べようとしたら、多分生涯の4分の1はなくなるだろう。
 とりあえず、これを雷牙は置いておく事にした。
「それにしても、何で君はここで歌ってたんだい?」
「え……、見ていらしたんですか」
「ずっとではないけどね。君の美しい声は遠くからでも響いたよ」
 ありがとうございます、と少女は深く頭を下げる。しかし、上げた顔が紅潮していた。かな
り照れているようだ。
「あはは……、以外と恥ずかしいものですね、人に聞かれてしまうのは」
「え? 誰にもそんな事はなかったの?」
「ええ、そうです」
 よくよく考えれば、それは当たり前だ。
 この山には人が訪れる事など必ずと言っていいほどありえない。それは地理的に遠いからと
言うのもあるし、なにより危険な場所に自ら進んで行きたいなど思う人間はまずいないだろう。
さっきの狼がその危険な理由だ。
 いくらどんなに美しく澄んだ声でも、この周囲から外に届くなんて事はないだろう。これを
聞いたのだって、ただの偶然だ。
 それが、雷牙にはもったいなく感じた。
「そうでした、歌っていた理由でしたね。実はというと……」
 そう言って、雷牙に向けていた瞳を嬉しさに輝かせる。
「誰かに、気づいてもらえたらなって思いまして。それで、歌にして呼んでいたんですよ。誰
かが私に会えるようにって」
 彼女の目は、本当に嬉しさで満ち溢れていた。
 雷牙は逆にあいまいな気持ちになった。
 山に誰も来ないという事は、すなわち誰にも会えないという事だ。ずっと、彼女はその孤独
さに耐えながら必死に歌を届けようとしたのだろう。
 たとえ絶対気づかないと分かっていても。
 それでも自分に気づいてもらえるように。ずっとずっと、いつまで続けたのか分からないぐ
らいずっと、歌い続けたのだろう。
「そんな悲しい顔をしないでください」
少女は優しく微笑む。
「今日になって、やっとライガさんに会えたのですから、それだけで私は感激でした。長い間
歌い続けた甲斐があったというものです」
 やっぱり、笑みを絶やさずにそう言った。
 心から、雷牙に向けられた笑みだ。
 雷牙は言葉が出なかった。どう言えばいいのか、分からなかったから。
「あ、そうでした。ライガさんにまだ、私の名前を言ってませんでしたね」
 胸に手を置いて、少女は大切にするように自分の名を言う。
「私は、エルアール・グレイセスと言います」
 雷牙は考えるよりも先に、手が動いた。
 その名前を聞いた直後に、雷牙は自身の腰からおろしているバッグに手を突っ込む。そこか
ら目当ての物を素早く取り出そうとした。
 しかし、それは中には入っていなかった。
「っ……」
 雷牙は軽く舌打ちをする。
 さっき湖に落ちた時に、ほとんどの物が水でダメになった。その時に必要ない物を置いていっ
た事を思い出した。もっと時間をさかのぼると、狼と生死を分けた追いかけっこをしていた時
に、エスパーダと剣をどこかに落としてしまっていた。
 今、雷牙が取り出そうとしていたのはまさにエスパーダだった。
「ああもう、目の前に標的がいるのに……」
 標的。
 今回雷牙に課せられた任務は1人の息の根を止める事。そうして手渡された紙には、その標
的の名前とそのいる場所が書かれていた。
 そこに表記されていた名は、エルアール・グレイセス。
 つまり、目の前にいる少女こそが、今回の任務の対象。
「どうしたのですか?」
「……いや、なんでもない」
 目の前の少女の心配そうな姿に、雷牙は気がめいって、それでも氷のような鋭さを交えた声
で突き返す。
 任務の目的と分かった今、今まで彼女に入り込んでいた感情が、導線を断ち切ったようにプ
ツリとなくなった。今の雷牙は自由に動く人間から、課せられた目的だけに従うロボットのよ
うな心に入れ替わった。
 しかしその目的は、武器がないため達成できない。
「あの、本当にどうかされました?」
 雷牙の中は、目の前の少女をどうするかしか考えていなかった。
 抹消させるため道具はここに来る途中に全てなくしてしまった。それの代わりとなりそうな
ものも、あたり一体には見つからない。この場にあるのは、葉が生い茂る樹木と地面を彩る花
だけだ。
 どうしようかと、雷牙は首を傾げる。
「悩んでいるのですか?」
 少女は本当に心の底から心配しているようだった。
 とりあえず、ここにいたって何も出来ない。だから、雷牙はこの山から立ち去る事にした。
踵を返し、元来た道を戻ろうとする。
「あれ、もう帰るのですか?」
 そこに、声がかかる。
 振り向くと、少女が真っ直ぐに雷牙を見つめていた。その瞳には、短い時間しかいない事か
ら悲しみが溜まっているようだった。
 だが、そんなのでもう雷牙は動かされなかった。
「僕は用事があるから」
「どんなのなんですか?」
「……、それは言えない」
 君を殺す。目が潤んでいる少女に、そんな事はいくらなんでも言えなかった。
 そのまま黙って足を進めようとした時に、ふいに重い衝撃が頭にかかった。
「うぐっ……!?」
 頭を外側からしめつけるような痛みに耐え切れず、雷牙はその場にしゃがみ込む。そのまま
額に手をついて、我慢するので精一杯だった。それと同時に、吐き気までもよおしてくる。
「ライガさん!?」
 後ろから、少女が駆け寄ってくる足音が聞こえる。
(風邪……か……) 
 雷牙には思い当たる節がある。さっき崖から湖に入水した雷牙は全身ずぶぬれだった。そし
て、そんな状態でずっと真冬の気温に長時間さらされていたのだ。風邪を引く事は間違いない。
 雷牙はしゃがむ事すら耐えられず、とうとう地面に倒れ伏せた。
(くそっ、こんなところで……)
 そう思いかけた時、突然と意識が途切れた。


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