ボチャン、と。重いような水しぶきと共に、雷牙は水の中に放り込まれた。
「……?」
崖の下は湖が広がっていた。湖の水は蒼い澄んでいて、まるでガラス玉を見ているかのよう
に先まで見渡せる。
雷牙はその水の中をただ沈んでいく。体の節々がとてつもなく痛く、表面に上がろうという
力は残っていなかった。
意識が朦朧としていく。
「がはっ!」
しかし、突然息が苦しくなって、雷牙は口から大量の泡を出す。泡は上のほうへと昇っていっ
て、やがて見えなくなる。雷牙の意識は、それではっきりとしてきた。
息は吸えない。あとどれくらいかしたらおそらく止まるだろう。
(嫌だ……)
雷牙は心の中で叫ぶ。
当たり前のように、雷牙は死にたくはない。こんなところで、自分に課せられた命を果たせ
ずに絶える事など避けたい。
神経を行き渡らせて、手を上にかく。動こうとしない手足を必死に、無理矢理にでも動かし
て上に進んだ。
だが、それを雷牙自身が身につけている物が邪魔する。バッグの中には機械類がごちゃごちゃ
と入っているため、余計に重い。元々剣は吹き飛ばされたときに落としてしまい、鞘なんてた
だのお荷物だ。
息はもうない。あとどれだけ保てるかも全く分からない。
雷牙は迷わなかった。腰から下げている鞘を取り外し、湖底へとほうった。鞘は重さに任せ、
ただ真っ逆さまに沈んでいく。
「……」
惜しむような目でそれが闇に消えるまで見届けて、雷牙は進み続ける。
遥か上方にある水面を目指して、手でかき、足で蹴り、なにがあろうと辿り着くようにと、
雷牙は進んだ。
どれだけかいたか分からなくなった時、水の中に光が差し込んできた。
(あと少し……!)
それが希望の光に感じて、今までより速く手足を動かす。雷牙はどんどん水面に近づいてい
き、やがて水面から顔を出した。
「げほっ、げほっ!」
途端に肺がむせて、雷牙は半身水の中から出した状態で咳き込む。時間の感覚さえなくなっ
てたが、相当長い時間沈んでいたらしい。
とりあえず、陸に上がる事にする。近くに見える地面に雷牙は水をかき分けながら向かって、
ザブンと音がするくらい勢いよく上がる。
上がって体を見て、初めてまずい事に気づいた。
「やばっ、荷物が駄目になってる」
腰からおろしているバッグの中にある、道具がほとんど使えなかった。
剣はさっき落としたために消えている。エスパーダはさっき飛んでいってなくなっているし、
雷牙が持ってきた荷物のほとんどは機械だったため、水でやられてだめになっていた。そのう
え移動手段としていたボードもどこかに消えている。多分、湖の底に沈んでいるのだろう。
つまり、雷牙は無一物の状態になってしまったのだ。
「あ〜あ、どうしようか」
困り果てた雷牙は、嘆きの声を露にした。
ここらへんの地理条件は雷牙には全く分からない。そのサポートとして持ってきた機械類も
全て終わってしまった。もちろん、もとから焦って飛び出して目的地すら聞くのを忘れてしまっ
た雷牙にはこの先どこへ行けばいいのかも分からない。
それにしても、とにかく寒い。
「……うぅ、水に濡れるのはだめだな」
着ていた衣類ごと着水した雷牙はそれが冷えてたまらなかった。山岳地帯は一段と寒く、雪
まで高く積もっている。こんな中で、普通に水に浸かった服を着ていれば凍死になる可能性も
ありえる。
しかし、だからといって脱ぐのも凍死になる危険が起こる。ならば、着ていたほうがましだろ
うと、雷牙は思った。
「着るもの他に持っていないしね」
雷牙は自身を嘲笑うかのように、調子を上げて言った。
大体、もうどこでもこの寒さは変わらない。それが、何日でも何ヶ月でも、たとえ何年だろ
うと。
「……、今は考えないほうがいいね」
この寒さを起こした原因よりも、今はこの寒さをどうすればいいのか。雷牙はそれを考えた
い思いだった。
が、それは出てこない。右も左も分からずに動けば迷って倒れて凍死。かといって動かなけ
れば倒れて凍死としか考えられない。
「いやだねぇ」
とりあえず、策が見つかるまで雷牙は動かない事にした。
雷牙が何もしないと、何もない辺りには静寂が行き渡る。誰もいないのだから、それは当た
り前なのだ。
落ち着けば何か浮ぶかも、と雷牙は安易に物事を考える。
と、その時に、かすかな旋律が耳に響いた。
「あれ……?」
雷牙は首を傾げる。その音は背後にある針葉樹林から聞こえてくるが、それはありえない事
だった。
この雪と針葉樹しかない所に、メロディなんて聞こえてくるはずがない。もしこれが自然物
が作り出したとしても、雷牙はその事について聞いた事がない。
興味深く思って、雷牙は音のする方へ自然と吸い寄せられていった。
林を歩いていくと、旋律が鮮明に聞こえてくる。それは高く空のように澄み切った音で、そ
れを声と理解するには少し時間がかかった。
「人がいるのかな……?」
人がいないと聞かされていた雷牙は、とびあがるほどではないがかなり驚いた。というのも、
今のこの寒さが厳しく作物も育たない環境で外に住める人間など、いるはずがないと思ってい
たからだ。
もっとも、それを可能にさせる機械があるのなら別なのだが。
「だけど、それがあるとは思えないな」
雷牙は辺りを見回すが、それらしきものは全く見当たらない。
もし、この環境に慣れるとしたらまず人口太陽が必要になる。本当の太陽でさえ厚い雲で遮
られた今、そんなのがあるのは限られた地域だけでこんな辺境にあるとは思えない。あるのな
ら、既に見えているはずだ。
それに加え、四季を作る事が出来る機械も必要になる。一定の温度で保ち続けていた場合に
は育たなくなる作物も多い。それはそれに慣れるように品種改良をすればいいのだが、そんな
のにお金かけているのなら、そっちの方が安いのである。
まあ、品種改良もした事だから、今の作物は少々歪である
とにかく、そんな大層な機械がないここには、一体何があるのだろうか。
「とんでもないものが、見れそうな気がする」
そう考えると、雷牙はどこかわくわくしてきた。昔から、雷牙は新しい物を見るのが好きな
のだ。
林を進む。高らかな声は、進んでいくごとに声量を増していた。
その時、雷牙はパシャ、とはねる音を耳にした。
視線を落とすと、そこには水溜りが広がっていた。
「雪が……溶けた?」
あまりの出来事に困惑し、雷牙は視線を徐々に上げていく。
そこで見たものは、現実とは到底思えないものだった。
「森が……ある」
驚愕のあまり、雷牙は呆然としてしまう。
そこにはいつの間にか緑が生い茂っていた。地面には雑草や花が生えていて、青、赤、黄と
様々に色づいた花弁をあたり一面に振りまいている。
驚愕のあまり、雷牙は呆然としてしまう。
そこには緑が生い茂っていた。地面には雑草や花が生えていて、青、赤、黄と様々に色づい
た花弁をあたり一面に振りまいている。
周りに生えている木も今までとは違っていた。さっきまでは寒さに強い針葉樹だけだったの
に対し、この辺りでは到底耐えられないはずの広葉樹まで生えている。今まで雷牙は針葉樹し
か見た事なかったために、初めて見るものに心底驚いた。
そして、何よりも寒さが感じられない。
「ここは、なんて暖かいんだ」
さっきまでの身を切るような寒さとは間逆の、包み込むような優しい暖かさがあたりに満ち
溢れていた。雷牙もコートが暑く思えて、脱いで腕に下げた。
おかしかった。この辺りには何も見当たらない。なのに、限られた地区と同等の快適さを持
ち合わせている。それが自然現象とは、絶対に思える事はなかった。
今はもう、冬以外には季節は訪れないのだから。
「とりあえず、この歌の主を探そう」
今も絶え間なく耳に届くこの天声を探すため、雷牙は花畑のような地面を進んでいく。泥を
踏むような感覚が足に伝わってきた。
その感覚も、雷牙にとっては初めてだった。雨ももう降らない事から、泥が作られるという
場面など滅多に遭遇しない。一瞬時間移動したかのような、そんな気分にまで起こさせた。
「だけど、時間移動って出来ないんだよね」
それは、学者が証明していた。なんでも、時間を移動するなら4次元の他に、5次元、6次
元と多大な次元の関係とわたり方を見つけ出さなければならないらしく、今の進みきった科学
でも不可能という事らしい。
だが、その過程で瞬間移動を行える方法が見つかった。そして、その方法を応用、縮小させ
たのが、さっき雷牙がだめにした機械の1つにあった。
「本来なら、あれ使えれば一瞬で用が済んだのに」
それは目的地を打ち込めばそこにつながる次元を作り出し、そこを通る事で大まかな位置へ
瞬間移動できるものだ。だがそれは、目的地が分からなかった雷牙にとってはただの重たい荷
物でしかなかった。
焦りでここまでなるとは思わなかった、と自嘲を繰り返す雷牙だった。
その時に、今までずっと進んできた一本道が急に開けた。それを焦らずに、雷牙はゆっくり
とした足取りでたどり着く。
そこにいたのは、1人の少女だった。
白のワンピースを着ているその少女は静かに目を閉じて、手を願うように合わせて歌ってい
た。雪がそのままかたどったような純粋の銀髪を背中まで流していて、それがかすかに吹く風
に揺られていた。
小柄で華奢に見えるその姿は、静かにその時をまっているかのように、美しい歌声を出して
いる。それに呼ばれてか、小鳥がその少女の元へ飛んできて、肩や手に足を休めている。木々
もその少女が歌う曲調にあわせて揺れているかに見えた。
まるで、この辺り一帯のものが全て彼女の歌で出来ているような、そんな錯覚さえ感じた。
「……」
しばし、雷牙はその歌声に見とれていた。
彼女を綺麗というには、可愛いの方が合うと思う。美しい歌声を出しているからこそ幻想的
ですばらしいと思った。
だが、なぜかその少女がとつもないほど、儚く散ってしまいそうに感じた。とてつもない運
命に回されそうな、そんな感じが。
「――――、あれ?」
少女は歌い続けた後、そんな声を漏らして止める。どうやら、雷牙の事に気がついたらしい。
歌が作る幻想も途切れて、周りの風景も少し色を失ったように感じる。
閉じていた目が開かれる。そこに写る瞳は、宝石のように輝く蒼を彩っていた。
「……ようこそ」
「え?」
そして、にこやかに笑顔を送るその少女に、雷牙は思わず時が止まったように思えた。
その時こそが、運命の歯車が回りだした瞬間だった。
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